思い出すのは中国の著名映画監督、張芸謀がかつて無名だったころの章子怡(チャン・ツィイー)を主演に撮った「初恋のきた道」という映画(1999年)。これは国際的には高く評価されベルリン国際映画祭で銀熊賞も獲得したのだが、中国では上映されても全く人気がでなかった。実際、中国の映画館で中国人と一緒にこの映画を見た人に聞くと、日本人には理解不能な場面で大爆笑するのだという。

 例えば、田舎娘を演じる章子怡があこがれの都会から来た青年教師に会いたくて必死に走るも、道の真ん中ですてん、とこけるシーンとかで爆笑がおきるのだという。なぜ笑うのか、と聞くと、単純に必死で走る女の子のこける姿が面白いから、笑う。あるいは美人女優が小汚い田舎娘の扮装をしているのが面白いから笑うのだという。好きな人を思って必死に走る少女に感情移入する、ということは99年当時の映画館の大衆にはなかったようである。

感情移入できる人物が少ない

 私のあまり多くはない中国小説読書体験からしても、中国の小説には日本人読者に共感を訴えるものは少ない。例えばノーベル賞文学賞を獲った莫言やフランツ・カフカ賞を獲った閻連科、彼らと並ぶ小説の名手・余華の作品は物語の壮大な構成力と実験的な文体筆致で読者を圧倒するが、登場人物の一人ひとりに素直に感情移入することは難しい。

 登場人物はどこか尋常ではなく、こうした小説を読んで理解するのは中国社会の無情さや残酷さや不条理、奇怪さ、複雑さであり、あまり救いがなく、希望もなく、その中で生きてゆく中国人の強さというものに感慨を覚えても、それは共感とはちょっと違う。彼らの小説の読後は、カタルシスよりも、むしろ何とも言えぬ後味の悪さにとらわれることの方が多い。もちろん、彼らの作品にも情感の漂うものも多々あるのだが、中国人読者自身がそうした作品を小品と評価しがちである。

 大衆小説にしても、素直に感情移入できる人物というのはなかなか少なくて、例えばテレビドラマにもなった六六のベストセラー小説『上海、かたつむりの家』(邦訳、プレジデント社)の登場人物にしても、中国の庶民小説の名手といわれる劉震雲の『盗みは人のためならず』(邦訳、彩流社)にしても、なるほどこれが中国人か、という描写にうならされるも、やはり感情移入はできないのである。

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