だが、冷静に考えてみれば、24歳のうら若い女性が、殺意を持って現れた元彼と友人がもみ合っているのを、玄関のドアを開けて助にいく勇気がなかったとして、そこまで責められることだろうか。ドアを開けてしまえば、容疑者も家の中に入り、二人とも殺害されてしまったかもしれない。江秋蓮の悲しみ、怒りは理解できるものの、今の中国社会に道徳という言葉で、劉鑫に社会的制裁を与える資格があるのか。もちろん日本でも、社会の多くの人が、法の裁きが不公正・理不尽だと感じたとき、この“世論の暴力”がしばしば発動されるが、少なくとも劉鑫は脅迫にあった被害者でもあり、裁かれる側ではない。

 誤解を招くことを恐れずに言えば、私には今の中国の社会問題において、この江歌事件はそこまでクローズアップして報じるほどのニュースバリューなのだろうか、と疑問を感じた。むしろ、メディアが世論の関心をこの事件に誘導しているような気もするのだ。

重要度より自由度か

 中国では11月、何かヒリヒリするような社会不安感情を刺激する事件がいくつか起きている。日経ビジネスオンライン「中国・キタムラリポート」などでも紹介されている北京市大興区の安宿火災から始まった「低端人口排除事件」は、人権問題として、それこそ道徳の問題として、中国人が向き合い、政府や党にその姿勢の是非を問いかけるべき事件だろう。北京の私立幼稚園で起きた教師による園児の連続虐待事件も、権力に関わる背景がありそうな気配だ。これら事件は発生後まもなく、当局による「事実の否定」が発表され、中国メディアでほとんど報じられなくなった。微博などSNSでも、このテーマは、検閲、削除対象となっている。

 江歌事件は、昔からある男女関係のこじれが原因の殺人の動機であり、低端人口排除や幼稚園の連続虐待事件は、背後に中国の権力の存在が感じられる事件だ。だが、中国メディアにしてみれば、習近平政権下でのかつてないほど厳しいメディアコントロールがあり、中国国内の政治がらみの社会問題事件を自由に取材したり、報じたりできない。むしろ日本で起きた殺人事件の方が取材しやすいし、報じる自由度が高い。日本で起きた殺人事件で道徳世論を盛り上げるのは、結果的には中国国内で起きている政府や党に世論の批判の矛先が向きかねない社会事件を覆い隠す効果もあるのではないだろうか。