名指しで批判された張五常は1月22日に次のような反論を新浪財経などのネットニュースサイトを通じて発表した。ちょっと長いので、端折りながらその言い分を紹介したい。

張五常「利己には三つの見方」

 「周教授の私に関する批判には少なからぬ疑問符がつく。そもそも、彼は私の論文を読んだことがあるのか? 聞きかじったことをもとに、暴言を吐かないでほしい」

 「私の私有財産についての観点をここに簡単に説明させていただくと、まず、英語のプライベートという言葉に“私”という漢字をあてるほかない。中国文化が“私”に対するネガティブな意味を負わせることが不幸であった。実証科学的に経済学が言うところの自私、利己には三つの違う見方がある」

 「一つ目は、利己とはドーキンスの著書『利己的な遺伝子』にもあるように天性のものであるという考え。二つ目に、利己は自然淘汰の結果という考え。これはアダム・スミスの国富論を起源にしている。私の師であるアルメン・アルキアンは1950年、アダム・スミス論の延長として、ある重要論文(『利潤を最大化しない企業は淘汰される』)を発表し、同時代の経済学者に多大な影響を与えた。アルキアンの説は人類が利益の最大化を追求するのは自然淘汰の結果というものだが、私が自説に使う利己の概念は、天性説でも自然淘汰説でもない。三つ目に、私が自説に使う“利己”とは、ある断言的仮説である。この仮説の下では、人類が利己的遺伝子を持っていようがいまいが、利己的でなければ生き残れなかろうが、関係ない。経済学的には、限定条件の下、個人は利益の最大化を争うのである。例えば、子供に二つの選択肢を与えるとしよう。飴を一粒得るか、二粒得るか、好きな方を選べ、と。もし二粒とって一つを捨てたならば、それが“利己”である」

 「経済学とは経済における定理を求める学問である。…その定理の一つは、物価が下降すれば需要が増える。この場合、限定条件は価格である。その変化が需要を決め、結果として個人の最大利益が決まる。私はこれを“利己定理”と呼びたい。この定理は“利己”という言葉を使わずに需要供給の定理ということもできる。だが、限定的条件下で利益の最大化を追求すること自体が“利己”であるとすれば、これを利己定理と言える。需給定理を経済学を学んだことのない人に説明するなら、利己定理というのがわかりやすい」

 「少ない資源の下、大勢の人間が存在すれば必ず競争が生まれ、勝者と敗者が生まれる。その競争のルールを決めるものは市場価格である。しかし、所有権の定義がなければ市場価格は生まれない。これは私の親友のロナルド・コースによるコースの定理で説明されている。市場価格が競争のルールとして勝敗を決定しないのであれば、その他のルール、例えば人間関係や年功序列や武力などがルールとなれば、ある程度の賃貸消失を引き起こさざるをえない。不幸なことは、この所有権の定義こそ、周教授の反対する私有財産なのである」

 「2008年に出版された『中国の経済制度』という拙著の中で、『私は私有財産と市場の社会に対する価値を堅く信じて40年以上たつ。しかし、かつて中国共産党の存在に反対したことはない。私は民主的投票による改革には一貫して反対してきた』『党の指導と指揮によって改革を行うのだ。だが、その成功の主たる要因は中国人民の努力と知恵と忍耐である。明日に希望が見出せれば、人民は今日の艱難辛苦に耐えられるのである』と指摘している」