中国の貧困を2020年までに根絶するという目標については、昨年から米クリスチャンサイエンスモニター紙はじめ欧米メディアが好意的に報じ、中国から本当に貧困がなくなるかも、という楽観的な見方をする学者もいる。世界銀行も中国のこれまでの8億人に上る脱貧困を偉業だとして讃えている。絶対的貧困が中国からなくなる、ということ自体を批判するつもりは私にも毛頭ない。

ヒリヒリするような不安の中で

 だが、私はここにきて「貧困撲滅」のスローガンが繰り返されることに、むしろ不穏なものを感じる。2020年の所得倍増を達成するために出したGDP目標を実現するために、必要のない都市開発や鉄道インフラに資金を投じ経済統計数字を引き上げた結果、農村にゴーストタウンや赤字を垂れ流す高速鉄道網が建設され、農村社会を崩壊寸前に追い込んだ。

 こうしたメンツを重視して目標を設定して、それに向かって指導者が大号令をかけて邁進するやり方は、かつての大躍進のときと同じく、そのやり方が誤っていても誰もブレーキを掛けられない。共産党の徹底したヒエラルキー構造のなかでは、現場が上部組織に問題を提起したり、大衆の不満を政府機関がくみ上げて政策に反映させる器用さがない。年末に北京を揺るがした「低端人口強制排除」問題と同様、手段を択ばない貧困撲滅運動はむしろ、深刻な人権問題を引き起こしたり、搾取するものと搾取されるものの対立を先鋭化させたりするのではないか。それは実際に年末に中国の北京や地方都市を訪れたときに、そこで出会う人々の不満やヒリヒリするような不安を体感した私の直感にすぎないのだが。

 本当の「貧困を脱した」と「小康社会」と言える状況は、おそらく、どのような貧困な状況にあっても希望が持てる社会のことを言うのではないか。たとえ、何かの理由で働けなくとも、最低限の生活保障と教育の機会を奪われない。人としての尊厳を踏みにじられない社会。実はそれはトップ指導者の大号令に従うだけでは叶えられない、社会全体のもっと有機的な作用が必要なのだと思う。今の習近平政権のやり方では、それが叶えられるとは私には思えない。

 2017年10月に行われた中国共産党大会。政治局常務委員の7人“チャイナセブン”が発表されたが、新指導部入りが噂された陳敏爾、胡春華の名前はなかった。期待の若手ホープたちはなぜ漏れたのか。また、反腐敗キャンペーンで習近平の右腕として辣腕をふるった王岐山が外れたのはなぜか。ますます独裁の色を強める習近平の、日本と世界にとって危険な野望を明らかにする。
さくら舎 2018年1月18日刊