現在、実用分野に予算を持って行かれた結果、日本の宇宙科学の予算は全く足りていない。例えば米国の惑星探査を担当するジェット推進研究所の年間予算規模は15億ドル(1ドル100円として、1500億円)。これは日本の宇宙科学予算の10倍近い。しかも米国で宇宙科学を担当する組織はJPLだけではない。

 この絶望的なまでの予算格差がある状態で「世界第一線級の成果」を出すことを求められ、期待に応えるために粘りに粘った結果が、最終的にひとみの分解事故へとつながった。今回の事故は、そう考えるべきなのである。

 もうひとつは、一定以上の予算超過や計画遅延があった場合、その分野の研究コミュニティに例えば次の衛星案の公募に参加できなくなるというようなペナルティが科せられるという制度の整備だ。これは、「粘るだけ粘って、予算超過を認めさせた者勝ち」になるのを防ぐためであり、また事前検討が不十分で未成熟な衛星案が公募において、「科学者コミュニティ間の政治的取り引き」で採択されるのを防ぐためでもある。

1998年以来の積み木崩しを直視しなくてはならない

 ここまでの流れを、時間を遡る形で追ってみよう。

 X線天文衛星「ひとみ」の分解事故の背景には、少ない予算と限られた打ち上げ機会を使って、世界の第一線級の成果を挙げようとする理学系研究者の粘りに対して、衛星システムを担当する工学系研究者からの安全優先の歯止めが十分に効かなかったことがあった。

 歯止めが効かなかった理由は、ISAS工学系の弱体化があり、弱体化の根本には工学系研究の基礎となる工学試験衛星とロケットが途切れてしまったことがあった。

 工学試験衛星とロケットが途切れた背景には、2003年の宇宙三機関統合による予算減少があり、宇宙三機関が統合された背景には、2001年の中央官庁統合で、文部省と科学技術庁が統合されて文部科学省となったことがあった。別々の官庁が別の宇宙組織を持っていたものが、同一の官庁となったことで「統合して効率化の成果を示さねばならない」ということになったのである。そこには、「どのような組織体制が日本の宇宙開発にとって最適なのか」という本質の議論はなかった。

 中央官庁統合の議論の中で、科学技術庁は「科学技術省」に昇格する可能性が十分にあった。それが、1995年の高速増殖炉「もんじゅ」ナトリウム漏洩事故、1998年のH-II5号機打ち上げ失敗、1999年のH-II8号機打ち上げ失敗とトラブルが相次ぎ、政治からの懲罰的圧力により文部省との統合ということになったのだった。そこには、「科学技術を振興するにあたって、日本はどのような官僚組織を持つべきか」という本質の議論はやはり、なかった。

 さらに予算減少の直接原因としては、1998年から始まった情報収集衛星(IGS)計画があった。IGSの経費は、既存宇宙開発予算に食い込む形で予算化され、これまでの18年間、年間600億円から700億円を費やす日本最大の宇宙計画となっている。2008年の宇宙基本法成立の後、日本の宇宙関連予算を現行の年間3000億円規模から5000億円規模に増やすという議論があったが、財政逼迫を理由に見送りとなった(ちなみに日本が対GDP比で米国と同等の宇宙関連予算を支出した場合、ほぼ年間1兆円規模となる)。

 つまり、日本は1998年以降の18年あまりの間、予算は増やさない一方でやることを増やし、「日本はどうあるべきか」の議論を抜きに組織を統合した。そして、無理矢理「統合の成果を作る」ために、じわじわと宇宙科学を追い詰めてきたのである。それは「これぐらいならいいだろう」「これぐらいなら大丈夫」と、積み木崩しで積み木を抜いていく様子に似ている。

 X線天文衛星「ひとみ」の分解事故が、ISASの計画管理体制の不備で起きたことは間違いない。が、同時にその背後には政治と行政が1998年以来18年以上の積み木崩しで、1980年代から90年代にかけて「黄金時代」と形容されるほどの成果を挙げた日本の宇宙科学をじわじわと追い詰めてきた事情があることを、我々は直視する必要がある。