では、なぜ理工一体が崩れたのか。私はISAS工学系のOBから「文科省がM-Vロケットをなくしたからだ」という意見を聞いている。かつてISASは糸川英夫博士直系のM-Vロケットを持ち、自分達の衛星・探査機を自分達のロケットで打ち上げていた。が、2003年の宇宙3機関統合によるJAXA発足の後、2006年に文部科学省は高コストを理由にM-Vを廃止してしまった。

最後となったM-Vロケット7号機の打ち上げ(2006年9月23日、写真:JAXA)。この2カ月前の7月26日、文科省・宇宙開発委員会でM-Vロケットの廃止が正式に決まった。が、それ以前、2000年頃から文科省(2001年1月までは文部省)はM-Vロケットを廃止する方向で宇宙研へ圧力をかけていた。
最後となったM-Vロケット7号機の打ち上げ(2006年9月23日、写真:JAXA)。この2カ月前の7月26日、文科省・宇宙開発委員会でM-Vロケットの廃止が正式に決まった。が、それ以前、2000年頃から文科省(2001年1月までは文部省)はM-Vロケットを廃止する方向で宇宙研へ圧力をかけていた。

 「宇宙研の衛星も探査機も、M-Vロケットで打ち上げていた。ロケットを仕切っているのは工学系だから、理学系にしてみれば工学系の機嫌を損ねたくはない。だから理学系は工学系の意見を尊重していた。工学系もロケットに存在意義を与えてくれるのは理学系だから、喜んで理学系と協力した。また、宇宙研は大学の体育会に似たところがあって、大型のロケット打ち上げを所内の全員が力を合わせて実施することで、一体感を得て関係者全員の意思疎通を円滑にしていた。打ち上げごとに全力でお祭りをやって親睦を図っていたようなものだ。その“御神輿”だったM-Vが2006年になくなって、宇宙研はばらばらになってしまった――」

 M-Vロケットは宇宙研のロケット研究の到達点であると同時に、その意義を巡って様々な意見がある。「固体推進剤を用いたロケットでは世界最高の最適化を達成した高性能ロケット」、あるいは逆に「小さな組織が保有できるぎりぎりの大きさのロケットで、その存在には無理があった」「M-Vに合わせた大型の衛星・探査機は、宇宙研の計画管理方式で管理しきれるぎりぎりの大きさであり、事実M-V以降、トラブルが続発した」などなど。

M-V廃止の振り返りを含めて徹底的な調査を

 それでも、理工の意思疎通の不備がひとみの機能喪失事故の背後に潜んでいるなら――そして当たり前に理工一体を実践していた組織が、ことさらに理工一体をスローガンにしなくてはならなくなった背景にM-Vの廃止があるなら、M-V廃止はひとみの事故までつながっていることになる。

 さらに突っ込んで行くなら、なぜ文科省が2006年時点で十分に実績を積んだロケットであるM-Vを、そのまま未来へと発展させるのではなく一気に廃止としたのか、その背後にどのような意志が働いていたのかまで明らかにする必要がある。

 実態は、「M-Vを廃止したから理工が離反した」というような単純かつ一直線のものではなく、もっと様々な要因が重なっているはずだ。それでも、ひとみの事故を通じて、M-V廃止という決定が何をその後の宇宙研にもたらしたかを考えることには、今後の誤った意志決定を防ぐにあたって大きな意義があるだろう。

 ひとみの機能喪失事故は、どうやら、2003年の宇宙3機関統合によるJAXA発足以降の、「良い組織文化をどのように継承し、発展させていくべきだったか」という、根深い組織の問題を芋づる的に掘り起こす発端となりそうだ。事故調査を通じて組織の抱える問題を徹底的にえぐり、白日の下、議論の前提として開陳することができるかが、今後の日本の宇宙科学、ひいては宇宙開発の明暗を決めることになるだろう。