体操の宮川選手がパワハラを告発したが、理事会にはその加害者とされる人間が会議に入り、「パワハラはなかった」という結論を出した。

 こんな荒唐無稽なちゃんちゃらおかしい結論があろうか。「助けてほしい」と叫んだら、「事実がない」と認定される。宮川選手の無力感、虚無感は、とてもよく理解できる。

 この社会は、告発したところですんなり健全な環境を手に入れることができるほど成熟していない。

 保身で解決を放棄する人間も、パワハラし放題の人間も、同じ穴のムジナだ。どちらも“権力”だけを見て仕事をしている。「助けてくれ」が通じにくい社会で我々は働いていることを自覚したほうがいい。窓口だけはやたらとあるし、求めれば第三者委員会とやらもできる。が、私が番組を降りてきたように、どれほどの労働者が告発前の不本意な失意で職場を去っていることだろう。ルールや法律をたくさん作ったところで、職場のいったい誰がそれを現場のステージに適応させる荒療治ができるだろう。

従属するか、戦うか、去るか

 最近、たぶんこれが正しい、という私自身の結論を得た。

 それは、「テレビに出たい」と思った人間は負ける、ということ。出たいと思うから不本意な権力への従属を受け入れてしまう。出たいと執着するから得た権力をいかに手放さないために東奔西走し、エネルギーを消耗する。本来、自分の仕事に注ぐべきエネルギーを、人心収攬や、人脈作り、権力者への媚び、言うことを聞かない人間への報復、などに費やしてしまう。

 やがて、本業が手薄になる一方、その焦りからさらに権力渇望地獄にはまりこんでいく。権力の負のスパイラルから抜け出せなくなる人間にあるのは、“焦り”だ。

 権力は360度に満ち、誰もそこから自由にはなれない。
 が、そこをどう生きるか、は、個人の生き方で、そこだけが“自由”な領域だ。

 権力を前に、人は3つの選択肢がある。
 従属するか、闘うか、去るか、だ。

 その先に待ち受ける光景を想像するに、尊敬していたら別だが強要される権力に従属し続ける人生に明るい未来はあろうか。
 闘うにはまだこの国は理解力も共感力も未熟だ。告発しても撃沈するリスクが高い。

 私は去って去って去り続けたが、不思議なことに仕事は続いている。

次ページ 寡黙な応援者を忘れずにいよう