そういうのがあってもいいのではないかと知識人に聞くと、一度組織として決めたものはくつがえせないのだそうだ。
今の私ならこう言うだろう。
「ボブ・ディランが授賞式にどういう登場をするのか、もはや今は興味がありません。興味があったのは返事をしなかった行為について、そこに何かの信念を期待したからです。いまさら受賞を喜ぶのなら相手に2週間も返事を待たせたことをまず謝れよ、と思います。待たせたら、待たせた相手にゴメンというのは小学校から教わること。まだそれができないのでしょうか」
深めておくべし
授賞式はまだ先だ。そこで彼が何を言い、何をするかで、私は自分の考え以上の、もっと想定外のことを期待もしている。それがフツーに「サンキュー」で終わるものだったなら、私はやはりこう叫びたい。
「まず、謝れよ」
なんか違うなー、と、感じたことは、それについて自分なりの考えを深めておくことをお勧めする。なんか違うなー、だけではその場の状況に流される。
いざというときに備えておけ、ということだから、当たり前すぎる話なのだが、現実には、なんか違うなー、を放置しがちだ。
大抵は放置しても問題ないが、放置するばかりでは、ほんとうの「いざ」というときに、悔やみきれない後悔をすることになる。
うむ、ボブ・ディランから話が離れ始めたので、この辺で締めたい。
くどいようだが、私はボブ・ディランを責めているのではない。
「まず謝れよ」を言えなかった自分を責めているのだ。
『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』