だが、一方的に偉大な賞をあてがわれ、名を刻まれることになってしまったアーティストが、2週間の沈黙を破り、喜びのコメントを発表したことに対し、私はどうしてもこの“2週間の沈黙”をなかったことにはできないのだ。
喜びのコメント=あー、よかった、の安堵ではなく、“なぜ”の不信感のほうが優先する。
「もう、けっこう」
もし一方的に「この指輪をプレゼントしたい」と誰かから言われ、それを無視していたら、もうそれが“答え”ではないか。一方的に渡したほうは意気消沈したり侮辱だと怒ったりする。が、2週間後に「ありがとう」を言われるほうが無視することよりも侮辱だと思うのは私だけだろうか。
世界が注目するプロポーズのようなものだ。私がする方なら、「もう、けっこう」という気持ちになる。
少なくとも、皆が注目している中でのプロポーズを2週間も沈黙され、2週間後にイエスと言われたら、私が最も聞きたいのは「なぜ?」のほうであり、「喜んでくれて嬉しい」とはならない。
落語家の師匠が、まだ経済力のない若い日にある女性にプロポーズをした話をしてくれたことがある。
「僕と結婚してほしい」
すると女性はこう返事した。
「数日、考えさせて」
間髪入れず、その師匠は言った。
「わかった。考えるくらいならいらん。今の話はなかったことにしてくれ」
そして1分後に破談になった。
たった数日、相手を待たせようとするだけで、相手を傷つける。
ノーベル財団にはそういった意気というものはないのだろうか。
「ノーベル賞はあなたに決まりました」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
」
「返事がいただけないのなら、引き揚げさせていただきます」