私が優先したのはその場の流れだった。私は私の意見を言わなかったのだ。何かが怖くて。
それはボブ・ディランを慕うたくさんのファンの皆様の喜びに水を差すことにならないかとか、そもそもボブ・ディランの値打ちを知らない私がケチをつける権利などあるのだろうか。そうまでして危険な橋を渡るほど、そもそもボブ・ディランに興味ないしとか。
見えない怖さに負けた
一瞬の間にいろんな感情が脳裏をめぐり、見えない恐さに私は負けた。そして、無難な意見を言ったのだ。
…ただただ自己嫌悪…。
時間が経ってもその気持ちは消えない。私は、だからといってこのコラムを書くにあたり、ボブ・ディランの歴史を調べてから書こう、というほどの興味もなく書いている。
私に興味があるのは、唯一、「なぜ、正直な自分の意見を言えなかったか」に集約され、それがボブ・ディランであろうが、レディ・ガガであろうが、関係ない。
ノーベル賞であろうが、トニー賞であろうが、関係ない。
権威ある組織から一方的に評価されることに、沈黙、という返事をしたアーティストがいた。
迷うことなく万歳をし、酒を飲み、家族たちが記者会見するより、よほどカッコいいじゃないか、ロックじゃないかと思っていた。
「どんな登場をしてほしいですか」の質問があれば私は正直にこう答えるべきだったのだ。
「興味ない」と。
ただ、これも番組作りとしてはNGワードだ。どれほど興味のないテーマでも、思いっきり前のめりで待ってましたとコメントを言える状態にエンジンをかけておかねばならない職業で、「興味ない」くらいの愚答はない。
会議でも同様ではないか。ひとつの議題が上がり、自分が刺された時に「興味がない」は、あり得ない不遜な姿勢だろう。