仕事をやり切った男が焼くパンの味

 子育ても家庭も、ワークライフバランスもほぼなかった。人生1個分ただ働いた。感想は? と聞くと「やり切った」と微笑んだ。「だから今は趣味がとても楽しくって仕方がない」そうだ。

 彼は当時は珍しく、途中入社で入った社員だった。「なぜ社長まで出世できたんですか?」には「僕はとにかくよく動くんだ。フットワークが軽いんだ」という。そして、退職後は休むことなく趣味と社会貢献ボランティアに東奔西走している。

 こんな定年後の70代をいったいどれほどの男性たちが過ごせているだろう。

 「僕は仕事をやり切ったんだ。これからは社会貢献するんだ。それとね、パンを初めて焼いたら、びっくりするほど美味しいんだ!」と笑う元社長の表情は新入社員のようだった。

 会社の名前は新田ゼラチン。本社は大阪府八尾市にある。戦前に創設した人も、彼を採用し、育てた当時の社長もすごい人物なのだろうが、なにより、入社面接を受けに来た20代の彼を見てみたいと思った。

 最後まで自己の業績に浮かれることなく、自慢せず、「ゼラチンって、おもしろい素材だよ」と同じノリで「パンを焼くって、おもしろいよ」と言える。私の芸能生活も長くなったが、「会いたい」と思うスーツを着たトップはこの曽我憲道氏、ただひとりだ。

 仕事で家を顧みる暇が無く、妻から離婚される男性とは、つまりはその程度の魅力の男性、ではないか。仕事一筋というかもしれないが、本当はテキトーに遊んできたはずだ。酔っぱらって帰宅したはずだ。曽我氏のいう「とことん働く」の生き方は、「ワークライフバランス」だけが幸せを保証するものではないことを実証している。彼の会社が作ったコラーゲンは今でも食べている。が、次は彼の焼いたパンも食べてみたい。

(写真:大槻 純一)
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