ご相談
今回の衆院選挙、遙さんはどこに注目されましたか?(40代女性)
遙から
今回の衆院選挙、世間を騒がせた方たちの明暗を振り返ってみたい。例えば、世間はどういう女を許し、どういう女を許さないのか。
気になったのは豊田真由子元議員だった。ああいう上昇志向がハンパなく部下への叱責が容赦なく暴言にまで行くタイプを、世間は結果、許さなかった。
その得票数は前回選挙の4分の1で、最下位だ。
惨敗と言える。
彼女が立候補に再挑戦した時の、自らのあり様の戦略は果たして正しかったのだろうか。テレビで見る彼女の姿は平身低頭の演説風景だった。
ある番組で共演者が言った。
「子供が豊田候補に近づいてきて、このハゲ―ッて叫んだんだ。そしたらその子供に対しても、申し訳ありませんと頭を下げてたよ」
…私は釈然としない。
彼女には「引っ込んでろ、クソガキ―!」と叫んでほしかったのだ。
働く女性たちの間では、こういうフレーズが流行っている。あくまで私の周りでだが。
「私の中の豊田真由子が言うのよ…」。そして、なんらかの放言へと続く。
少なからぬ働く女性は、大なり小なり心の奥に、理不尽やら不合理やらのあれこれへの怒りのような感情を抱きつつ、同時にそれを笑顔で隠しながら働いている。それは男性も同様だろうが、それでも、怒鳴るオッサンが見慣れた光景なのに比べ、豊田真由子氏のそれは、女性がそれをするか、という意味においてセンセーショナルだった。被害者が受けた傷についてはちょっと置かせていただく。
そして、私なんかは、心の栓が取れたかのようなある種の爽快感を感じたのも正直なところだ。
夜更けの怒気
もちろん、暴言はいけないし、暴力もいけない。まして自分より弱い立場の人にそれを向けるとはもってのほかだ。だが、「ちょっと聞いてくれる? 今日、私の部下がねーっ」と怒気を隠さない、働く女たちからの電話が日常茶飯事なのも現実だ。会社では決して語られない夜更けの愚痴電話では「あのクソヤローッ!」は、豪快に怒鳴り散らされている。
繰り返しになるが、もちろん、公人が公にすべき言動ではない。
そして、これも粘るようで申し訳ないが、豊田氏のそれは、同様の感情をひた隠す女性たちの心の栓をひそかに抜くカタルシスの効果があったと私は思う。
彼女は、二つの層の票を無くしたと思っている。ひとつは男性層。女性から侮蔑され罵声を浴びせられることに傷つき許せない男性。だが、この段階ではまだ怒れる女性たちの応援層はあったはず。声高には出来ないまでも、ひそかに“私の心の豊田真由子がね”と語る女性たちにとっては、公言できずともコソッと応援したい。そういう票を豊田氏は掴み損ねたのではないか。
怒れる女性たちは、暴れる女性が好きなのだ。部下に暴言を浴びせた行為は猛省すべきだが、あの、「なぜ私の仕事レベルについてこれないのか」というある種の容赦のなさは、なんら恥ずべきものではないと私は考えている。言葉を選び、相手を選び、堂々とメディアであの怒りの論調を解放すればよかったのに、と、私なんかは思う。
秘書にではない。世の理不尽な仕組みやらに対して吠えていたら、また違った豊田真由子像が出来上がったのではないだろうか。
もちろん、怒れる女性はまだ少数で、理性的良識派女性が女性を非難する、といったこの時代のこの社会での多数派女性の票は取れないだろうが。
そんなことを夢想しながら選挙結果を眺めていると、議会で追及を受けたり、各種スキャンダルが取り沙汰されたりした立候補者たちの結果が次々と伝えられた。
モヤモヤの先に
いわゆる「不倫」関連では、「夫の不倫」は落選で、「本人の疑惑」は当選だったり、なんだかモヤモヤする点も多いのだが、じーっと眺めていて、当否の境目は「この女、生意気だ」と世間が感じるかどうか、なのではと思った。
もちろん、いろいろな要素が絡んでの結果だと承知しているが、眺めれば眺めるほど、そんな気がして、またモヤモヤしている。
そういう意味では、小池百合子氏の失速もその線に沿っていると感じる。
小池氏への好き嫌いはメディアでもはっきりしていた。男性ジャーナリストたちは私が共演したその多くから、小池氏への嫌悪、苦手意識しか聞かなかった。
彼女はだが、知事になった時から常時、敵対感情を隠さない都議たちに対しても、笑顔で低姿勢だった。自民党総裁に立候補したり、知事選に推薦がなくても立候補したり、行動のみを見れば、"生意気"だろう。しかし、姿勢は常時笑顔、無礼な態度がメディアに映された記憶は私にはない。
ここが、長年、男性組織内で這い上がってきた女性の真骨頂だ。小池氏は決して、相手を愚弄するような言葉は吐かなかった。民進党の前原氏と合流するまでは…。
危機に瀕した民進党党首との会談と合意後の小池氏の言葉は、それまでと様子が違った。
後に、「排除、という言葉は、記者の質問にその言葉があり、それを引き受けて言ったのであり、自分から言った言葉ではない」という党首討論の小池氏の弁解を聞いた。
自主的に排除を使ったのではなく、言わされたのだ。OK。そうだとしよう。
なら、「さらさらない」はどうか。自ら発言している。
「民進党を全員引き受けることは、さらさらありません」という言葉を聞いた瞬間、私は「ダメだ」と感じた。そうした驕った生意気な物言いを、世間は見逃さないし、許さない。
許されることがあるとすれば、ずーっと最初から、生意気なパーソナリティであること。それはそれでブレないわけだから歳月をかけてその生意気さにも世間の免罪符が得られる。いつも辛辣な発言をし、それでも人気があった田中真紀子氏がその例だ。
生意気も、続ける技量があれば、それも人柄として受け入れる度量が世間にはある。低姿勢になれば票を得られると勘違いする立候補者たちはそこを理解していない。
あったのか、作ったのか
希望の党が、当初の目標のように政権奪取に近づけた可能性はあったと私は思っている。
前原氏と小池氏の合意後、こう発言していたらどうだっただろうか。
あくまで、世間が好きな言葉として。
「まだできたばかりの我が党に、紆余曲折を経て思想の異なる議員を含む懐の深い歴史ある政党から、このようなもったいないお話しを頂いた。我が党には資金的余裕も、人員的余裕も脆弱なところから、今回の合意には感謝しかない。我が党を選んでくださったこと。恐縮至極であり、責任感も強く感じる。前原代表の熱い想いを受け、可能な限り多くの党員を引き受けたいと考えている。もちろん個人の思想心情は尊重したいから、合意に強制力を持たせるのではなく、あくまで党首同志の合意であることから、詳細は今後詰めていきたい。前原代表のご期待を裏切らぬよう、誠心誠意、頑張ります」
パリの国際会議で「鉄の天井があった」と発言した。
鉄の天井は自分で作ったんだよと、私の心の奥の豊田真由子が言う。それまでは、たくさんの女性たちが小池氏の出世を自らのロールモデルとして期待していた。まさしく、小池さん、あなたが"希望の塔"だったのですよ。
離党者が続出し、奮い立とうにも奮い立てない民進党の党首との合意の先にあるのは、危機に瀕した人を助け、それを自らの力にし、権力に立ち向かう、という壮大なストーリーの幕開けのはずだった。しかし危機に瀕した人への敬意も配慮もない言葉を口にした途端、メッキは剥げた。
「全員を引き受けるつもりはさらさらない」
何様のつもりだお前は、と、改めて私の中の豊田真由子が言う。
眺めていると
前原氏の演説時の野次は聞いていてつらかった。
バカヤロー! 騙されやがって! などなど。だが、前原氏は無所属で通った。人が好い、という彼の人柄のブレなさを世間は、人が好くて騙された議員、としても、許容した。
世間というのは、何とも微妙なバランスのとり方をする。人が好すぎて、関東のしたたか女に騙される結果となっても、地元は不憫と、それを受け入れる。
世間が何を許し、何を許さないか。きっとその境目は時代やらその時々の空気で変わる。それが正しいかどうかは判然としないし、おかしなことも多々あるし、何があっても落ちない岩盤支持層を持つ方々もいらっしゃるから選挙結果だけで断じられるものでもないだろうが、でも、じっと眺めていると、ああ、世間の境目は今このあたり、と感じることはできる。
何はともあれ、当選した方には頑張っていただきたい。くれぐれも驕ることなく。