ご相談
最近の職場に、実は違和感を抱いています。パワハラ研修などの成果でしょうか、上司たちは専ら部下に気を遣うばかりで、何というか「良い緊張感」がなくなっているような…。なごやかな雰囲気が悪いわけではありません。パワハラがいいとも思いません。しかし、自分が若い頃に感じた「ピリッとした緊張感」は、それはそれで意味があったと思うのです。「厳しい上司と必死の部下」の関係の中で学んだことはたくさんあります。繰り返しますが、パワハラがいいと言うわけではありません。ああ、この私の違和感、うまく伝わりますでしょうか…。(40代男性)
遙から
このコラムで以前書いたテレビ番組『バイキング』に出演することになった。他人事として冷静に批判やエールを送るのと違い、今度は我が事となったわけだ。
もう芸歴の長い私だが、どの番組に出るかということは、番組の状況によって日光浴に行くのか、戦場の最前線に行けと言われるのかくらいの温度差がある。日光浴系の番組とは、すでに視聴者に視聴習慣がついており、試行錯誤をせずとも何十年と生き続けられる番組だ。安定した視聴率の数字もついてきているので、そのまんま継続すればいい。つまり、尖らなくていいし、穏やかさが求められる。
それに比べ、戦場系番組とはその名の通り、数字取り合戦の真っただ中の番組のこと。それも微妙に劣勢の番組ほど必死度が高い。あの手この手で他局が安定した数字を確保する中、視聴者を"横取り"するための陣取り合戦なのだから。ダメなら?終わるだけだ。
「死ねや!死ねや!」
戦国時代に例えると、討死、だ。タレントは「ダメだったタレント」として烙印を押されるし、制作会社は外されるし、生き残るのは正社員のテレビ局員だがこれも"うまくできなかった人"という経歴がついて回る。バイキングとはまさしくそういった合戦中の真っただ中の番組だった。さしずめ戦国武将はメインパーソナリティの坂上忍氏ということになる。
かつて、司馬遼太郎の描いた戦国紀には合戦に出る武士たちに武将が「死ねや!死ねや!」と言って戦いに追いやるシーンが書かれてある。"死ねや"とはつまり、死ぬ気で戦え、生きて帰ろうとするな、死にに行け、という意味があったと書かれてある。
私の場合、なぜか関西の番組でもこういう死ぬ気で挑んでいかねば数字を取れない系の仕事が多く、消耗するぶん、結果、二桁の数字が取れた日にはスタッフたちと大宴席で乾杯するほど、まさしく「今回の戦は勝った」ことにやっと息がつげる思いを共有するのだ。
そんな私が番組を見ていて、「この武将は本気だ」と画面を通して伝わったのが、坂上忍氏だった。
そこに招かれるとは、光栄なことでもあり胃の痛む思いもする。そこが戦場であるのを見ていて予測がつくからだ。
巨大すぎる局内に入り、その割にとても効率よくできた動線に感心しつつ楽屋に入る。出演者全員の各部屋に挨拶にまわる良識派の方もいらっしゃるが、私はしない。イベントではない。数字を取るための陣営に呼ばれたことを理解していれば、挨拶は本番直前のスタジオ内でのひと言でいいと思っていた。
メイク室に入る。大勢の出演者が並び、日々あった出来事を楽しげに喋っているが、私は誰とも喋らない。芸能界に長年いるが、いればいるほど私はこの芸能界というところが好きにはなれないでいる。「テレビに出たい」ということにどれほどの意味や価値があるのだろう。それが芸能界であれ、商社であれ、銀行であれ、そこにあるのは常に他社との戦いで、それに勝たねば死ぬ。そういう競争原理のもと仕事があるので、そこに職業の違いがあるとは思わない。
出るか、取るか
ただ芸能界の場合は複雑な付加価値がつき、その原理を見えにくくさせていると思う。タレントとして売れたら成功。テレビに出演できていれば成功。といった、知名度=成功、という図式が、そこにある本質を見えにくくさせてしまう。
もしそこに成功があるのだとしたら、数字を取れて、成功、なのだ。それ以外の成功はないのではないか。個人的成功などあまり意味はなく、ある戦国武将のもと、そこでいかに戦い、いかに他局相手にいい戦ができるか、が、最終的な勝ち、なのだと少なくとも私は芸能界を俯瞰している。
それを最も実感できる当事者とはメインパーソナリティ。つまり戦国武将のみだ。他は出入り業者のようにいろんな番組に呼ばれて生計を立てているし、そうやって生きていく世界でもある。個人戦として芸能界を生き抜くか、戦国武将と共に勝利を目指すかは、もしかしたら個々の生き方の違いなのかもしれない。どちらでも生きることはできるだろうから。
でも、私があくまで番組で見た坂上忍氏の腹の括りは、「この人、本気だ」と、見ていて通じるものがあった。そこに胸が打たれた。
私を育ててくれた諸先輩方がいる。もう引退したり他界したりで、ひそかに寂しい気分で仕事を続けてきた。が、ここにまだ、あの当時の武将たちと似たオーラを放つ青年がいるではないか。
局入りするなり戦況を、つまり、数字をスタッフに聞いた。他局と格闘中だという。
私の頭の中はそれを聞くなり、メイクもヘアも、微妙に違う肩書も、漢字を間違えた名前表記もどうでもよくなった。
格闘中か。なら、戦おう…。
久々のオーラ
「誰にも挨拶しない」という私に、事務所の人間が、「せめて坂上忍さんにだけは」というので、楽屋に行った。扉を開けると、そこに、昭和の時代の芸能界の視聴率をけん引してきた先輩たちがかつて持っていた独特のオーラを放つ青年がいた。
タバコを吸いながらモクモクと漂う煙の中で(今の時代、タバコて!)真剣な眼差しで台本を読む。そこに、いまからの合戦の戦略を練る武将の姿が重なった。その真剣さは、いったん始まるとバラエティとしての笑いを提供する光景からは、視聴者は想像しにくいだろう。
真剣ながらに、あぐらをかく姿勢から、正座の姿勢へと変え、最短で最低限の礼儀の挨拶を彼は済ませた。
彼も同様なのかもしれない。挨拶などどうでもよい。来るというなら受け入れるが、今の自分はそんなことよりこれからの戦だ、というのが、台本を食い入るように読み込む険しい表情からうかがえた。
同時に、"ご挨拶"ということが芸能界のイロハのイであることなど子役の時代から叩き込まれてもきた青年であろう。だから出た"正座"なのだとうかがえる。
挨拶、で、その人物の背景がよく見える。
楽屋にいると、来られる挨拶はけっこう面倒なものだ。衣装に着替えるために素っ裸になった瞬間、たいていノックがあり、「ご挨拶に来ました」という。
慌てて服を着て扉を開け、いったい誰を待たせたのか「すみません!」と大声で来てくれた人を探す。
あるいは、ちょうどつけまつげのノリが乾く直前、このタイミング、という時に「ご挨拶です」と来られる。途中の化粧でする挨拶、特に、まゆげを一本しか描いていない時に来られる挨拶ほど辛いものはない。だから私は、来ていただく方を拒絶はしないが、心の奥では来られないほうが楽だ、という本音も抱えている。
来るほうも、若いタレントはマネージャーに"連れられて"来る。
それはしっかりしたプロダクションほど、先輩にはご挨拶をという方針を徹底しているからだ。それをまさしく現場で教え込んでいる。
あるいは、「ひとつよろしく」の袖の下バージョン。いただくものはクッキー三枚でも全部嬉しい。が、これも別になくても本番でのトークになんらかの影響があるというわけでもない。
「大人」がいない
また、リップクリームを塗りながら、階段の上から、階下の先輩である私にとがらせた口で「おはよーございまふ」といった天然系の挨拶をするタレントもいる。
本来なら、あくまで、本来ならだが、挨拶というものは先輩に上からするものではない。まして、〇〇しながら、するものでもない。が、もうそういう時代でもない。もうどうでもいい。なんだっていい。ただ、先輩として心配なのは、教えてくれる周りの大人がいない中で育つそういうタレントの行く末だ。
20代なんてまだ子供だ。教えてくれるちゃんとした大人が、特に、芸能界でいないということはそのタレントの未来の暗雲を感じさせた。そのタレントはもういない。
ある番組の本番前、初対面の先輩のタレントに「今日からご一緒させていただきます」とご挨拶した。
その先輩は、私と目も合わせず、表情も変えず、軽く、あごを数ミリ動かしただけだった。
これが、今の芸能界だ。
腹を括った本気
挨拶ひとつでその人物の背景や生き方が露出する。こういう中、"それどころじゃない"状況で、ご挨拶を"受け入れ"、なおかつ一瞬"正座"をする青年がいた。
本番前に、私はこの戦国武将に魅入られた。こういう人物がまだいる。だったらまだ芸能界にいよう、と、思えた。バイキングという番組のみどころのひとつは、坂上忍という人間の腹の括り方なのではないかと思っている。