ご相談
突然の異動に茫然としています。長らく担当した分野で人並み以上の実績を上げてきた自信はありますが、いきなり畑違いの部署への異動宣告を受けました。若い頃の異動は「新しい仕事の経験も糧になる」と気持ちも新たに受け入れてきましたが、50代を目前にして、今の会社で新たな仕事を粛々とこなしていくか、愛着ある分野で新たな道を探すか、正直迷っています。(40代男性)
遙から
昔、番組をご一緒し、私に熱く指導してくれた元ディレクターが亡くなった。享年60歳。
残念なことに、50代後半の彼は坂を転がり落ちるようだった。飲酒運転で警察沙汰、異動、病気、離婚、そして他界。
そもそもなぜこれほどコンプライアンスが重要視される時代に、飲酒運転などしたのか、本人に問うたことがある。
「眠れなくて」が彼の答えだった。
初めての弔辞
急に最期を迎えたのではない。それまでに5年くらいかけて眠れないほどのなんらかの苦悩を抱え、そこで七転八倒しているうちに仕事も家庭も、自らの命も失われるに至った。そんな流れに、どこかで杭を打てなかったのだろうかと悔やまれてならない。
手ごたえのある現場から異動になった彼は、その人一倍の熱さを持っていく場を失い、困惑したに違いない。その情熱の大きさゆえに苦悩も大きくなり、自らへの重荷を増やしていったのかもしれない。異動後にひょうひょうと「そーゆーもん」とばかりに有給休暇で海外旅行を楽しむ、切り替えのうまいタイプの人は、以後もひょうひょうと年を重ねているけれど、彼はそういうタイプではなかった。
そんなことを思いながら、葬儀会場に向かった。
小規模の家族葬だ。
受付で葬儀のスタッフから声をかけられた。
「今回の葬儀はお坊さんが入りません。最後に弔辞をお願いできますか」
タレントという職業柄、人前で話すのは苦ではないが、考えてみると弔辞を読むのは初めてだ。会場で突然に託されたので、読む原稿はない。さてどうしようかと考えつつの参列となった。
改めて会場を見回すと、当時のディレクターたちが全員集まっていた。
若い頃、生放送やロケなどで、日々起こるハプニングやプレッシャーやドタバタ劇を共有したかつての仲間たちだった。当時のプロデューサーも来ている。80歳近い高齢から60歳前後の元スタッフたちが、すっかり白髪で勢ぞろいしている。
当時は申し訳ありませんでした
当時の私はまだ20代でハチャメチャだった。ロケに文句をつけ、我儘で、スタッフたちを困らせるどうしようもないタレントだったと自覚している。なんせ「朝はヤダ」の一言でロケを午後にしてもらったり、「すぐ働くのはヤダ」と海外ロケなどはまずマッサージを手配してもらうようなタレントだった。当時現役だったスタッフたちの、「もぉぉぉ」という困り顔を今でもよく覚えている。
その当時の、皆が揃った。
照れくさい気持ちもあり、懐かしい気持ちもある。今だから語れるあれやこれやが頭に浮かぶ。しかし、これから葬儀が始まろうとしている。互いに軽く挨拶を交わしながら席に着いた。
さて、お坊さんのいない葬儀というのは、つまりはお経がない葬儀だ。葬儀の間、何をするかというと、司会者が延々喋り続けるのだった。
司会者は長くゆっくりと喋る。「亡き〇〇さんの御霊を」「今、ここに皆さまのお心が」・・・そんな中、我々“熱血ディレクターの仲間たち”は花を一輪ずつ供えていく。
80代だろう。白髪の母親が遺体に黙って手を合わせる姿に胸が痛んだ。私は涙が止まらなくなり、弔辞ができるだろうかと不安になった。
ほどなく、こちらも80代の元プロデューサーが花を捧げる番になった。
彼は歩を進めると、そこにあったマイクをむんずと掴んだ。そして言った。
「僕は、彼のために、今からお経を唱えます」
そして「な~む~、あ~み~、だぁ~~~ぶぅ~~」と始まった。
彼は、彼なりの
マイクを掴んで立ったまま唱えるお経というのを初めて見た。元プロデューサーは美声だった。お坊さんのような地声の響く音色ではなく、どちらかというと男性合唱団にいそうな、なかばファルセットがかった声だ。
その洋風で男前な声に、お経という和のフレーズが、とても合わない。まして、カラオケさながらにマイクを握っている・・・。
さっきまで涙が止まらなかった私が、今度は、笑いをこらえるのに必死になった。
「ダメだ。笑っちゃだめだ」と念じるほどに、胃がよじれる。
不謹慎だと思いながら笑いが湧き出る。私だけかと居並ぶ元ディレクターたちを見ると皆、プルプルと震えているじゃないか。
・・・皆、笑うのを必死でこらえている。ダメだ。彼らを見たら、もっと笑ってしまう・・・。
なぜ、元プロデューサーはお経を読み出したのか。もちろん、皆を笑わせようというつもりはないだろう。
それは、彼なりの意地のようなものではなかったかと思う。
葬儀のあり方は多様化し、こうした読経のない葬儀や、火葬のみで葬儀は行わなかったり、散骨式のような形態もある。
それが今であり、会場に着いたらその式の流れに従うのが、いまどきのたしなみということになるだろう。
でも、彼は、彼なりの送り方をしたかったのだと思う。プロデューサーの血が、妥協を許さない。ここはオレの元部下を朗々と読経で送りたいんだ!となったら、読経で送るのだ。お坊さんがいない? 何とかしようじゃないか。といって時間もないし、この場で何とかするには・・・。
元上司はそういう男性だった。だから全ディレクターが彼についていった。そして、そのプロデューサーが選んだ私だから、ロクでもないタレントと分かっていても皆が相手をしてくれていたのだ。
次は私の番だ。
私もまた、マイクをやにわに掴み、言った。
「チョージ!(弔辞)」
私は、私なりの
後ろに並ぶ元ディレクターたちが息を飲むのがわかった。
彼らは、私が事前に弔辞を頼まれている事情を知らない。
誰にも頼まれもしない弔辞を、突然、私が、マイクを掴んで感情のままに喋り始めた。そんな光景に映っただろう。
彼らが昔から見てきた私の姿だ。
我儘気ままでやりたいことを譲らない私の、昔ながらの姿がダブっただろう。
「ヒィ」と乾いた息を吸う音が背後に聞こえた。
うわ、またかよ、うっそー、やめとけっ。色んな感情が読み取れたヒィだった。
私は、延々と喋ることにした。弔辞の原稿はないが、そんなものはいらない。この会場に入って、故人の写真を見て、彼のために集った仲間たちを見て、私には尽きぬほど語ることがあった。彼の輝いていた日々について語り尽くすこと、それが私にできる感謝の表し方だと思った。
故人は華々しい番組を立案制作し、それは大ヒットして長寿番組となり今もなお放送されている。思い出話もたくさんある。今だから言えることも、振り返ってこそ改めて思うこともある。
もちろん、参列した同僚たちは、ほとんど既に知っていることだ。でも私は喋り続けた。そこにいる白髪の小さな女性にもわかるように。
人生には「柔軟性」とか「対応力」が必要で、それをうまく持てない不器用な人間は、何かと苦労が絶えない。
しかし、何でも仕方がないと受け流すばかりでは、血がたぎるような体験もできまい。
全力を注げ
たとえ不器用でも、最大限の情熱を注いで、人生で一度あるかないかの熱いヒット作に出合えたならば、それはそれで、素晴らしいことじゃないか。
見事に燃え、熱の強さがゆえに後年の人生に対応できず病に散った。でも、その熱さがたくさんの仕事仲間たちの楽しい思い出となって今も生きている。
何事もつつがなく、もよいけれど、振り返って何もないよりも、たとえうまくいかなくても、数十年後に仲間たちが集まって宝物のような楽しい思い出を語り合ってくれるなら、それはそれで素晴らしいじゃないか。
葬儀の後、白髪の女性は、彼女の息子を称えた私に小声で訊ねた。
「息子はそんなに立派にやれていたのでしょうか」
私は大きく頷いた。現場で熱く輝いていた彼を知る者の一人として。