私は思った。
 「その手に乗るか…」

 この手法でおそらく少なくない女優たちが監督の感情のお相手をさせられたに違いない。
 反抗も演技もしない私がなぜ殴られなければならないのか、と、兄に相談した。  教員の兄は「殴らなくても話してくれたらわかります、と、言え」と私に助言した。

 よーし、次殴られたらそう言おう、と思っていたら、抱きしめられた。これまたそんな感情を相手に湧き上らせる言動を私はしていない。ただ廊下を歩いていただけだった。

 つまり、指導者として殴る、抱きしめる、というのは昔からよくある支配関係下での人心操作術なのだ。古臭い手法であり、その手法に引っかかるのはまだウブだから。いや、私がスレていたというわけではない。その男性の持つ感性を共有するにはバカバカしいと感じるくらい、冷めた女だったから、とでも言おうか。

感情のサンドバッグになるべき人などいない

 ドラマ撮影は監督を筆頭に極端なヒエラルキーの序列で苛酷な撮影現場を乗り越え一体感を得る一面を持っている。そして、なにも芸能界やスポーツ界のみがそうではなく、組織内でどう生きるか、個人的感情をぶつけてくる権力者とどう向き合うか、は、いつも自分に問われている。

 もし、あの暴力映像が飛び台や演技の途中、ダメな個所を強く叩いていたのだったら指導の領域かと思う。が、平場でただ立つ人間を殴るのは、指導なんかじゃない。感情をぶつけただけだ。だからあの映像は見ている人間の気持ちをざらつかせる。

 世間が異常だと感じる行為を容認してきたことが露わになって、宮川選手の協会パワハラ告発の言葉が説得力を失った。協会を告発する前に、自分自身の問題と向き合え、と。

 自分を感情で殴る人間を許してしまう。それは殴る側の問題だが、しかし、殴られる側の問題でもある。私は今、殴られることこそなくなったが、言葉の暴力でもたった一度でその人物とは距離を置くし、感情のサンドバッグになってまで誰かに必要とされようとは思わない。