ご相談
体操の宮川選手の将来をどう予想しますか?
30代女性
遙から
ますますわからなくなってきたのが体操の宮川紗江選手にまつわる騒動だ。
彼女が日本協会の塚原千恵子女子強化本部長と塚原光男副会長からパワハラを受けたとされる問題では、協会は第三者委員会を立ち上げ調査するそうだ。もしそこにパワハラがあったと認定された場合、塚原夫妻はなんらかの責任を取らされるのだろう。そしてもし、パワハラだと宮川選手が“感じてしまう”ような言動があったとしてもそれがよくある「誤解を与えるような」という曖昧さが残るものなら、それ相応の謝罪なりで一件落着となるのだろう。
また、まったくパワハラなどなかったとしたら、宮川選手のあの告発会見は何を意味することになるのだろう。もう加害者と被害者の関係性ではなく、被害者のはずだった宮川選手が、コーチとの関係を引き離されることへの過剰な拒絶反応、つまり、宮川選手の過敏さが原因だった、と片づけられかねない雲行きになりそうだ。
そもそも「協会こそパワハラだ」と抗議する宮川選手と、協会側の「暴力は絶対いけない」とする主張は対立構図になっていない。宮川選手は組織に問題があるとし、協会は暴力根絶を訴える。選手生命をかけた組織批判とすでに社会的合意を獲得済みの暴力批判。喧嘩になっていない。「私がいいと言っているのだからいい」という暴力は、結果、メダルを取れるのならば許容されるものだろうか。
ビンタ動画から(勝手に)読み取れること
宮川選手がコーチの速見佑斗氏から往復ビンタを受ける動画からは多くのことが読み取れた。
まず、あれは「なにかをしでかしたから平手打ちをした」とか、「反抗的だったから平手打ちをした」という光景ではない。殴られても直立不動の小さな人間に対し、大きな人間が何度も平手打ちしている。2度の平手打ちの合間に宮川選手は反抗も口答えも睨み返しもしていない。「2度殴らねば気が治まらない」と知っていて、そんなコーチの“感情”を優先させている様子に見える。
この動画は偶然カメラに収められたのだろうか。おそらく隠し撮りだろうが、撮る側は「今から起こること」を予期して撮影を開始したのではないか。撮影者が「また始まるぞ」と思っていなければ、この映像は撮れないのではないか。
2人の関係性に暴力があることをすでに他の人も知っていた。だからこそ、体育館で並ぶ姿を撮影し続けていたのではないか。推測だが。
「ここ1年くらいは暴力を受けていない」という宮川選手だが、それは「ここ1年は殴られていない」というDV夫を持った主婦の夫のかばい方と何が違うだろう。
あの動画から読み取れるのは、ひどい暴力、ということ以外に、指導ではなく感情優先が常態化し、他者も見て見ぬ振りをして容認していたことだ。
まさにドメスティックバイオレンス(DV)
これは、夫婦間のDV関係から逃れられない依存関係とダブって見えて仕方がない。
そもそもDV夫は「もう二度と妻を殴りません」と警察や妻の家族に約束しても、殴るのだ。妻はもともと好きで結婚したわけだから、「殴らない」と宣言してくれるならと生活を続ける。でも夫は感情に任せて妻のせいで殴らざるを得なくなるのだと主張しつつ暴力を振るう。とどのつまりは「俺を怒らせるな」的圧力と恐怖で妻を支配しようとする“女を殴りたい男”だ。しかし妻は「暴力はあるけど優しい人だし、子供もいるし」と辛抱しようとする。他者が強制的に離婚させることはできない。だからといって「本人がいいというならいい」と黙殺していいのか。スポーツの師弟関係においてもしかりだ。
大前提として、感情を抑えられない人間は、本人のよほどの努力や、カウンセリング、同じ悩みを持つNPOなどで治療しないとその衝動を抑えることは難しい。感情で他人を殴れる人の「もうしません」は、残念ながらDVから逃れるためのシェルターやDV法まである現実を鑑みると、その約束を守ることの困難さがうかがえる。
殴られても殴られても、その男性から離れられない女性もいる。総じてそういう女性は自己評価が低いと言われている。他者が強く自分を必要としてくれている、という現実が(その関係性を問うことなしに)自己承認欲求を満たし、感情を制御できない人の面倒を見られるのは私しかいない、という代替不可の理屈で、暴力やその後の抱きしめなど、ジェットコースターのような関係性の中で内向きの閉ざされた堅い絆を育ててしまう。
大坂なおみ選手がグランドスラムで初優勝しながらも気は弱いと言われているように、選手の見事なプレーと心のあり様は別物だ。宮川選手がメダル候補でも自己評価が低いと仮定すると、殴られる→怒り、ではなく、殴られる→真剣に自分を見てくれている、という解釈も可能になる。
二人きりで向き合う関係性が長く続けば、それはもう親子や夫婦と変わらない。親子も夫婦も縁が切りにくいように、互いの依存性が高いほど、暴力は軽視され、埋没する。これはまさにドメスティックバイオレンス(DV)だ。
暴力と抱擁、は支配したい人間の常套手段
協会のパワハラ問題とか、引き抜き問題とか、それは組織の問題だ。そっちはそっちでやればいい。私が問題だと思うのは宮川選手の主張が「暴力を振るうコーチを慕って止まない」自覚なき深刻さのほうにあると思う。
「暴力と抱きしめ」は、ある種の人間がよくやるアプローチだ。私もやられた経験がある。私は何も悪いことはしていない。が、監督がツカツカとやってきて皆の前で私を突然平手打ちにした。そして「ちゃんとやれ!」と怒鳴った。
ちゃんとやるもなにも、何もまだしていない状況で、ただ立っていた(他の出演者と一緒に)私だけが殴られたのだ。後日、廊下で監督とすれ違う時、突然監督は私を抱き締め「がんばれ」と言った。
私は思った。
「その手に乗るか…」
この手法でおそらく少なくない女優たちが監督の感情のお相手をさせられたに違いない。
反抗も演技もしない私がなぜ殴られなければならないのか、と、兄に相談した。
教員の兄は「殴らなくても話してくれたらわかります、と、言え」と私に助言した。
よーし、次殴られたらそう言おう、と思っていたら、抱きしめられた。これまたそんな感情を相手に湧き上らせる言動を私はしていない。ただ廊下を歩いていただけだった。
つまり、指導者として殴る、抱きしめる、というのは昔からよくある支配関係下での人心操作術なのだ。古臭い手法であり、その手法に引っかかるのはまだウブだから。いや、私がスレていたというわけではない。その男性の持つ感性を共有するにはバカバカしいと感じるくらい、冷めた女だったから、とでも言おうか。
感情のサンドバッグになるべき人などいない
ドラマ撮影は監督を筆頭に極端なヒエラルキーの序列で苛酷な撮影現場を乗り越え一体感を得る一面を持っている。そして、なにも芸能界やスポーツ界のみがそうではなく、組織内でどう生きるか、個人的感情をぶつけてくる権力者とどう向き合うか、は、いつも自分に問われている。
もし、あの暴力映像が飛び台や演技の途中、ダメな個所を強く叩いていたのだったら指導の領域かと思う。が、平場でただ立つ人間を殴るのは、指導なんかじゃない。感情をぶつけただけだ。だからあの映像は見ている人間の気持ちをざらつかせる。
世間が異常だと感じる行為を容認してきたことが露わになって、宮川選手の協会パワハラ告発の言葉が説得力を失った。協会を告発する前に、自分自身の問題と向き合え、と。
自分を感情で殴る人間を許してしまう。それは殴る側の問題だが、しかし、殴られる側の問題でもある。私は今、殴られることこそなくなったが、言葉の暴力でもたった一度でその人物とは距離を置くし、感情のサンドバッグになってまで誰かに必要とされようとは思わない。
孤独。多いにけっこう。身を守るためにもっとも確実な保険は、孤独、だ。
コーチを頼る気持ちは分からないではないが、どれほど愛を感じ、愛ゆえの行動があったとしても、感情で殴る相手なら、私は距離を持つべきだと感じる。
それでメダルが取れなくなったら?
それは、それで生活ができなくなったら? とDV夫を手放さない主婦のセリフだ。
最低限、殴る人間、過去殴った人間、を、遠ざける。メダルも生活もその次だ。殴られて強くなったのではない。自分が頑張ったから強くなれたのだ。強くなれなかったらどうしよう、生活できなくなったらどうしよう、は、じゃあどうすれば強くなれるか、どうすれば生活力が身に付くか、に、視点を変えるべきで、あの男性じゃなきゃ私はダメなんだ、と、思わせる行為として「殴る&抱きしめる」がある、と知っておいたほうがいい。
しかし、昭和の時代に権力者が女性に使った手法がいまだに使われ、昭和の女が辛抱したようにまだ18歳の女子がそれを容認するとは。
だから私はセリーナが好きだ
自己評価の低さなしには暴力の受容はない。大坂なおみが泣いた。日本国中が大坂なおみを好きになった。この国は、審判に抗議するようなむき出しの敵意を見せるプレーヤーよりも、勝利したのに泣く女性を拍手喝采するのだ。こういう国では殴られても、「私に謝れ!」という女性は育たない。
「暴力はありましたが、私には彼が必要です」と言わしめる深刻さは、宮川選手のみならず、そういう文化を作っている我々の問題でもある。大坂なおみ選手は私も好きだが、もっと好きなのは審判という権力者に対して「私に謝れ!」と怒鳴ったセリーナ・ウィリアムズ選手だ。理由は「性差別的だと感じた」のだそうだ。カッコいいじゃないか。
自分を殴る男を必要とし、守ろうとする日本女性を高く評価する向きはすればいい。不憫と思うなら思えばいい。抗議し、ラケットを折るほど暴れ、でも泣く大坂なおみ選手を抱きしめるセリーナに、私は惚れる。
『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』
ストーカー殺人事件が後を絶たない。
法律ができたのに、なぜ助けられなかったのか?
自身の赤裸々な体験をもとに、どうすれば殺されずにすむかを徹底的に伝授する。