記者会見は演出も姿勢も表情も完全に「詫び」を前提としていたが、テレビというツールは、本人が伝えようと思った以外のものを、鮮明に映し出してしまった。「残酷なツール」だ。
改めて、何ができるのか
他方、上沼恵美子さんが発した苦言は、テレビで持論を10分間喋ることができる人だからこそ、その力を発し得たのだろう。"世間"にむかって、"母親とはそういうものではない"と伝える。わずか数十秒のコメントではとても伝えきれない内容だが、10分間喋ることができるという条件において、テレビは「正解のツール」だった。
さらに他方で、得体の知れない地雷に怯え、腰が引ける発言ばかりのトークコーナーには、時に厳しい言葉で喝を入れられるだけの説得力と人生観を持つ人材の不足も垣間見える。
テレビというツールにはどんな「力」があるのか。
通信・コミュニケーションに関わるツールは昔から現在まで各種増え続けている。手紙や電報だけだった時代から電話機、そしてファックス、やがてメール、携帯電話、LINE…。公衆のものとしてラジオ、テレビ、新聞。Web上にも様々な媒体がある。
そうした多種多様なコミュニケーションツールがあふれる中で、さてテレビに何ができて、何ができないのか。危険性や限界、あるいは可能性といったことについて、期せずしてあれこれ考えさせられた。
テレビに関わる一人として、テレビについて考えるのは、やぶさかではない。残念でならないのは、そのきっかけだ。

『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』