息子が「死にたいと言っている」と。

 ここでも、いや、加害者側ですから。誰より苦しんでいるのは被害者のほうだろうと耳に障る。容易に死を口走る息子に、その言葉を真に受けてオロオロする大人の環境で育ったのだな、と想像させられる。

 発する言葉が、反省を口にする息子への同情を乞う言葉になってしまう。"詫び"の会見のはずが"許し"を乞うニュアンスが混じる。

 「被害者という女性」という表現。法的に不確定な状況にあるのでこうした表現をするようにと弁護士の助言があったのかもしれないが、「あくまで自分が被害者だと申し出ている女性がいる」というニュアンスにもとれ、違和感ばかりが募る。

「『申し訳ないことをしたね』と息子に言った」という表現。

 執行猶予がつかない重さの容疑を思えば、この表現はいかにも柔い。何をしでかしたかわかっているのか。あるいは、とんでもないことをしたんだぞ級の他の言葉はなかったのか。

 「何かあれば差し違えるつもりでと言ってきた」発言。

 厳しい言葉だが、他の甘い、あるいは柔い発言を鑑みると「差し違えるつもり」という言葉が本来示すはずの厳しさは伝わってこない。

ワケがわからない違和感

 世間では「贖罪」という言葉に違和感を感じたとの声を耳にするが、私が感じた違和感は「雪まろげ」のほうにある。

 「舞台」でいい。舞台の作品名を出した瞬間、「ダメだ。それを出しちゃ」と思った。作品名を出した途端、広告になる。すると我々はこの延々と続いた記者会見はこの告知のために設けられた時間だったのか、という邪悪な発想が浮かびワケのわからない着地をさせられることになる。