議論とは、論理と論理のぶつかり合いのはずだが、相手が「だってゲイは嫌い」という感情的な人を相手にすると、発言している本人にはまるで嫌いなものを好きだと言えと言わんばかりの圧力に感じられる。

 そうなると反発感情が高ぶり「嫌いなものは嫌いなんだ」という頑なな反発を大声でするしかない。

 大声でLGBTを否定し杉田発言を肯定する人に、大声で反論するのはとてつもなく不毛だ。私も負けた。そして知った。差別問題とは理屈ではなく感情だと。だから、誰かを差別したい人と議論したところで、“嫌い”という“感情”に働きかける言葉などないのだ。働きかけたらもっとデカい声で「大嫌い!!」と叫び返される。

 こうなると、データや論理など無力だ。

理屈の前にたぶん好き嫌いがある

 同時に、「〇〇だから嫌い」、という理屈(らしきもの)も、はなはだ怪しいことも見えてくる。つまり、「生産性がないからLGBT支援は反対」という文脈ではなく、最初に“嫌い”がある人が、「だって子供を増やせないんだから……」という理由を後付けして「水田氏に賛成!」となるんじゃないか。

 女性と議論しようとすると、感情的になり、論理が吹っ飛んでしまい、罵声や怒声を上げるタイプの男性がいる。そことも通じるように思う。「俺に反論する女性(私)」を面白いと乗って議論を楽しめるタイプの男性と、「反論しやがって生意気な」と感情をむき出しにするタイプがいるわけだが、後者はつまりは口の立つ女性が嫌いなのだ。

 バカな男はバカな女が好き。だから横に無知な若い女性を置いておくと、その男性の感情が安定する。これはつまり好き嫌い、感情の問題だ。

 女性差別もまた「まず感情ありき、次に理屈」と理解すれば、感情をむき出してくる相手との議論は回避すべし、という結論になる。