ご相談
最近話題の豊田議員騒動、どう思いますか?(30代女性)
遙から
ここのところ、豊田真由子衆議院議員の「暴言」が各種メディアで繰り返し取り上げられている。もう第三弾になる。その言葉に辟易とした表情を見せるコメンテーターを見るにつけ、「本当か」と思う。まるで自分にはその類の怒りはないかのような、驚きを隠さないリアクションが揃いも揃う様子を見るにつけ、「嘘をつけ」と私は思っている。
私だけなのか?
なぜなら、私には豊田議員の「怒り」がなんと言うか、すんなりと耳に入ってきたからだ。怒りの周波数が合ったといえばいいか。私の心の奥底にマグマのように渦巻いている、しかし現実には噴火させることのない怒りが、豊田議員の怒りと期せずして重なったようなのだ。
私がコメンテーターなら、「どうですか」の質問に、「共感する部分があります」と答えるだろう。
彼女の言動に相槌を打つことが憚られる昨今であることは承知している。でも、私と似た思いを密かに抱える人がいて、じっと口をつぐんでいるはずだと確信している。
もちろん、彼女の「暴言」はNGだらけだ。
「死ね」などと言ってはいけないし、肉体的特徴を罵るのもいけない。そんなことは世の中の常識で、いちいち指摘するまでもない。こんなことも分からないとすればそもそも社会人としてNGだし、分かっていて言っているなら、それはそれでNGだ。こうした罵詈雑言を連日浴びせられた人たちの憤りが相当なものになることも容易に想像できる。
自分より弱い立場の人に一方的に怒りをぶつけるというのも、いわずもがなでNGだ。
国会でおかしなことが起きたら、「違うだろ!」と思わず激しい言葉が口をつき、たとえ相手が自分より力のある者であろうと、自ら信じる正義を成すために敢然と立ち上がったのならば、その「暴言」は少なからぬ賛同を得たかもしれない。が、強きには笑顔をたたえ、弱きには怒声とあっては…。
何だ、おまえも全否定じゃないか、と言われそうだが、それでも、私には「共感」する部分がある。
「ああ、違う違う。自分勝手に判断してはダメだって。なんで確認しておかないの。ああ、だから、違うって。何で違うって言ってるのに、その通りにできないの? ああ、このままでは、どんどんどんどん仕事がずれていってしまう…」
仕事をしていて、そういう場面に少なからず遭遇するのは、私だけだろうか。
分からない人には分からない
ある水準まで仕事を到達させたいと願う人間にとって、その足を引っ張られることは耐えがたいストレスだ。
もちろん、すべての物事が思い通りに進むわけではない。どれほど注意深く取りかかろうと、思いもかけないアクシデントで計画が台無しになることだってある。
しかし、避けられるはずのミスを、不十分な準備によって生じさせ、それが多くの人に迷惑をかけることになるとすれば、「ああ!ちゃんと仕事をさせてくれ!」という悲鳴を心の中で上げることになる。
もちろん、その憤りがどれほど深いものであったとしても、暴言を吐いてはいけないし、手を出してもいけない。
激しい怒りを抱える人間は、それに相応する理性と忍耐力を保持せねばならない。
働くということは修行に近い。職場は様々なことを学び、自らを高めていく場だ。
聞くところによれば、豊田議員は支援者たちにバースディカードを出していたが、ちゃんと相手に届かず、いっときに40枚ほども返ってきたらしい。
リスト通りに送ればいいんだから、そんなに難しい話じゃないでしょう? そんなことが起きるなんて、よほどの理由があったんじゃないか?
…そんなふうに考えられる人は、ちゃんとしたスタッフに恵まれた人だ。
私の場合はかつて、スタッフに年賀状の発送を任せていた。
だが、毎年毎年、宛先違いでハガキが返ってくる。
私は住所変更の案内が来る度に、リストを更新するようスタッフに頼んできた。だが、年賀状は少なからず返ってくる。
もちろん、変更の案内なく引っ越される方もいるから、すべてが届かないのは仕方がないとして、ある日、やっぱり何かおかしいなと感じて、自分でパソコンの住所録をチェックすることにした。
そして、発見した。
パソコンの中に、住所録が4つ存在していたのだ。
そしてスタッフに聞くと、実はどれが最新か定かではないと言う…。
「なんでかな~」
またあるときは、差出人である私の住所を間違えて印刷されてしまったことがあった。結果、何百枚というハガキを手書きで修正することになり、元旦に間に合わなかった。
「なんでちゃんとリストを整理しないの?」
「なんで印刷する前に確認しないの?」
注意はしたが、怒鳴りはしなかった。
私は怒鳴りも歌いもしない代わりに、自分でやることにした。
いただいた年賀状を基に、改めて住所録を作った。
印刷の手配も、自分でやることにした。
「そうやって何でも自分でやるというのは賢い解決策ではない」
「ちゃんとやり方を教えて、できるように教育すべき」
それが正論かもしれないが、できているかどうか、いちいち心配しながらちょくちょく様子を見て、すぐ更新すればいいデータが一向に更新されないことにイライラしながら過ごすストレスを抱え、それを怒りに変えないようにと人知れずエネルギーを使うくらいなら、自分でやることを選んだわけで、私的には合理的な判断だったと思っている。
そもそも、印刷ミスがないようにするには、見本が届いたら、ちゃんと確認すればいいだけで、負担でさえない。
でも、それができない人がいるのも、また現実なのだ。
別の意味で、どうぞ冷静に
到着地の地図をちゃんと事前に確認せず、入り口を間違えるなど、私にとっても日常茶飯事だった。
いや、あれこれ競うつもりはないのだけれど、それが現実だったのだ。
あるスタッフは、道の途中で車を止め、そこで地図をじっと見て、20分ほど経っただろうか、「どうしましたか」と私が訪ねるまで、銅像のように身動きしなかったことがある。もちろん遅刻だ。
目的地に時間通りに着く、ということも、これまた誰でもできるわけではない。
私は自分で運転することにして難を逃れ、疲れている時にはプロのドライバーの方に頼むことにしている。
もちろん、仕事の現場には、常に先へ先へと目を配り、物事をスムーズに運んでくれるスタッフも、少なからずいる。
「ど~して~、そんなにしっかり~、で~き~る~の~か~な~~」と思わず口ずさみたくなるくらいの切れ者たちが、それぞれの現場を支えてくれているが、それがすべてではない。
豊田議員は100人もの秘書を辞めさせたと聞く。
彼女がそうした人たちに、いったい何を求めたのかは定かではない。
もし、意味もなくただただ怒鳴り散らす、取り換え可能なサンドバックかなにかとしか見ていなかったとすれば論外だが、もし、自分が求める仕事の水準に達する人材を求め続けていたとすれば、なかなか我慢強いというか、諦めが悪いというか、別の意味で驚く。
「我慢強いなどと肯定的にとらえるのはおかしい!」と反射的に怒りを感じる人がいるかもしれないが、どうぞ冷静に。私がここで「共感」しているのは、あくまで「自分が求める仕事の水準に達する人材を求め続ける人」に対してだ。
先にご報告の通り、私にはそういう根気はない。
仮に100人もトライして誰一人応えられなかったとすれば、そもそも求める条件が現実的ではないということになるだろう。
「自分が求める仕事の水準は下げたくない、しかし、それに応えてくれる人材とはなかなかめぐりあえない、それでもあきらめずに求め続けるが、このままでは慢性的な人手不足に陥って諸々不都合があるので、ひとまず人を雇ったが、これがまた要領を得ない。しかし、ひとたび雇用関係を結んだら、そうそう簡単にやめさせることもできない。やれやれ、どうしたものか…」
本当に、本当に私だけなのか
…そういう悩み、プロジェクトを率いたことのある人なら、そこそこの割合で持ったことがあるのではないかと想像するが、どうなのだろう。
ちなみに、私は時折、「何度言ったら分かるんだ!」と叫ぶ自分の声で目を覚ますが、私だけが、とてつもなく運が悪いのだろうか。そういう事態は、本当に私にだけ起きていて、誰も共感してくれないのだろうか。
やはり、私だけじゃないだろうと思うのだが。