その女性は高齢になるにあたり、次の勝負に不安を感じている。リフォームのはずがさら地にされることに釈然としない思いでいる。娘婿の強引な運びに憤りを感じている。

 プロがなぜ家族でもできないくらいこちらに親身に付き合ってくれるのか。
 答えは、客席から出た。これまた中高年の女性だった。
 「それは付き合いがあるからよ」と、何人もの女性たちが口ぐちに声をあげた。

 私も喋った。
 「そりゃ、出会ったばかりの不動産屋の兄ちゃんに、助けてと言ったって助けてくれるワケがない。私は彼らの中から誠実なタイプを選び、その人にとことん助言を求め、食事をし、助けてほしいと求めた。彼らと何年間も付き合った。彼らは仕事を超えて助けてくれたし、私もまた、失敗した物件は必ず彼らに販売をまかせて儲けてもらった。他人でも誠実なタイプはおり、付き合い、切実に求めれば答えてくれる」

 娘夫婦が横についている高齢女性を、その娘夫婦を超えて、助けてくれる不動産業の人はいない。だって、窓口は娘婿だから。つまりは、“家族”という防波堤を自ら築きながら、その防波堤自体を信用できないでいる苦悩をその女性は生きているのだった。

家族を頼ることのリスク

 「他人など助けてくれるか」という発想があるから、家族を頼る。だが、頼ってみれば、我が家がさら地にされる。この絶望に近い矛盾をどう解決してあげたらいいのだろうと考えた。

 究極に言ってしまえば、物件も家族も幻想なのだ。

 物件を買えば、安らかな生活が自動的についてくると思ったら大きな間違いで、賭け事なのだ。近隣の状況を見切りそこねただけで、とっとと安値で叩き売るか、あるいは、神経をやられても我慢するかになりかねない。不動産業界の活況は必ずしも景気の良さの証明とは言えない。取引が多い分、“失敗した人が多い”数値なのだと私は理解している。

 私はカネが余って余って仕方がないから住まいを転々としたんじゃない。転がり落ちたのだ。家族なんて冷たいものだ。私の困窮に関心もなければカネも出さない。私の問題は私で解決するしかなかった。