私は確信を持って感じているのは、人はあまりに長い間権力者でい続けると、世間が見えなくなるのだ、ということ。世間が見えていないから今起きている現実に見合った相応しい言葉を口から出せず問題をこじらせる。見えていない権力者側にとっては、問題とは、ストレスフルな騒ぎ以上の何物でもない。よって記者の正義感、問題意識に対し「まず、落ち着けや」という露骨に不機嫌な言葉を大臣が吐けたりもするのだ。

 いや、あなたの責任が問われているのですが、というこちらの疑問は、この上から目線の発言を前にして「この人、本気で自分に責任はないと思っているんだろうな」という新たな確信へと変わっていく。

 権力者はいつから権力者になるのか。

 それはずっと前、若いころから権力者だったのではないか。立派な肩書がついてからではなく、つく前。まだ小僧の頃。そんな頃からでも人は権力者になれる。それは、“利権”という道具を持った瞬間。そこから道が分かれる。

 利権を利用することに快楽を得るタイプと、自分が持った利権に対し、それが含み持つ危険性を察知して慎重になるタイプ。

 ここが小僧時代の大きな分岐点として、将来のズレきった権力者側の道に行くのか、人格者とあがめられる権力者、あるいは、出世しなかったけど人望の厚い信頼のおける大人、になるのか、そういう未来像を分けるのだと思う。

テレビ局にも、いや、普通の職場にも

 もちろん権力者は政治家だけではない。たとえばテレビ局にもいる。

 タレントという出入り業者はテレビ局から招いてもらわねば仕事がない。仕事の差配で言えば、同等かそれ以上の決定権を持つ芸能プロダクションも権力側になり得る。

 弱者のみじめさを知るタレントが、せっせせっせと出世を計り努力するのは、つまりは権力者になりたいからで、そういうパワーゲームで芸能界という職場は成り立っているといってもいい。

 大学も政治もスポーツ界でも、そして会社でも、組織にいればパワーゲームの光景は毎日見せられる。権力を前に人がどうなるのか、権力者側はどれほど自覚なくそのパワーを使うのか、失敗例、成功例、どちらを見ても、我々が毎日見ているのは、森友加計問題や日大アメフト問題ではなく、組織にあるパワーゲームを見ているのだ。

 だから展開が酷似していく。