女性記者や野党が執拗に追い詰めてはみたものの、「謝れ? 文章で謝ったよ。あ、言葉で? はいはい、もーしわけありませんでしたっ」と片づけられる。

 この発言をした個人ではなく、こういうタイプの男性たちに向かって、人生のエネルギーを注ぐ価値はどこにあるのだろうと首を傾げてしまう。

 一人を叩いてみたところで、次々出没する。市長のセクハラを副市長以下職員たちが認めても、肝心の市長は辞任してもそれを認めない。財務省としてセクハラを認め、記者会見で謝っても、肝心の本人は認めない。この“認めない人たち”を相手に、戦いを挑み続けるエネルギーの不毛な消耗を思うと、選択肢は、容認するか組織を辞めるか、になる。

 女性記者たちのリサーチ発表によると、セクハラに病んで職場を去った証言者もいるし、病むのがいやなら“容認”しかない。この通じない相手への交流をいつまで続けるべきなのか、次々出てくる“認めない”人たちの登場に、ゴキブリホイホイじゃないけれど、誰か、セクハラホイホイを販売してくれ、とさえ思う。

日常化したセクハラに罪の意識は生まれない

 この認めなさの理由は簡単だ。それは、彼らにとっては“日常”だからだ。
 セクハラ的アプローチは職場にあるだけではなく、ごく日常の家族内にもある。

 姪が来る度に、兄は「オッパイ大きくなったか」が「こんにちは」の代替用語だ。
 兄の頭の中は、オッパイで満ちていて、女性=性的対象、が脳みその構造に組み込まれ日常化しているのではないかと思うほどだ。

 職場ではないので、私も姪も烈火のごとく怒るが、そもそも舐めている相手からの怒りや拒絶など脅威になるはずもなく、怒れば怒るほど、相手には「俺がした行為に対して大きな反応を得られた」程度のメッセージしか届かず、その証拠に、怒れば怒るほど、兄は愉快に笑う。

 では、兄は、兄が勤める会社の社長令嬢にも、「オッパイ大きくなったか?」と聞くだろうか、ということだ。

 セクハラの背景にあるのは権力関係。加害者側は権力者側。弱者の言うノーなど届かない。だから、戦うならスキャンダラスな勝負に打って出るしかない。潰すか潰されるかだ。