彼は大阪から横浜に異動していた。

 「心配しないでください。まけて!というのは関西の方だけでした。横浜ではどなたも口にしません。大変、商売がしやすいです」と笑った。

 彼は長年、匠の仕事を続けるうちに、ウン千万というノルマを抱える上司の立場になっていた。しかし、部下はなかなか育たない。顧客のニーズにとことん応えるには、相応の覚悟と気概が要る。彼の仕事ぶりは文字通りプロフェッショナルだが、それが優れていればいるだけ、継げる者を育てるのは容易ではない。

 「高価でも良いもの」を選ぶ人は少なからずいる。しかし、それが飛ぶように売れる時代ではない。「安価でもそこそこ良いもの」が手軽に手に入る今、彼のような「職人的生き方」は大変そうだ。それでも好きな道を極め、自分の力で、自分の食い扶持は稼ぐ、といった生き方を選ぶ道はありかもしれない。しかしそれを、企業的なキツいノルマと両立させるのは容易ではないだろう。

老舗らしさはどこへ

 そんなやり取りがあった後、私はある温泉にひとりで行った。

 子供時代に親に連れて行ってもらった情緒ある著名な温泉街。「とにかく老舗旅館を」と旅館組合にお願いし、あとはまかせた。

 その日は仕事の都合で到着は夜。街で軽く夕食をと思ったが、旅館近辺は暗く静まり、食べられるところはなかった。

 しかし、夜といってもまだ8時。旅館に着いて、何か食べさせてもらえませんか、と聞いてみた。

 返ってきたのは「申し訳ございません」。それが老舗旅館での最初の会話だった。