川沿いをジョギングしていると、一人の警察官が救命用の浮き輪を持って川岸に走り寄り、「ええっ?ええっ?」と川面を覗きこんでいた。それだけでピンときた。誰かが今、川で命を落としかけている。第一報を聞きつけた警察官がまず駆けつけたのは私のいる場所だった。私も咄嗟に川岸からそこにいるはずの命を探した。10分後、警察官が15人ほど、レスキュー隊が15名ほど集まり、向こう岸にもパトカーが5台も並び、やっと見つけた。レスキュー隊の男性が水中メガネをつけて「入ります!」と叫んで水に飛び込み、見つけた人を抱き上げた。

 すでにそこに命がないのは、硬直した手と皮膚の色で素人の私にも理解できた。後日、私のジョギングコースに花束が置かれ、そこにあった命が失われたことを確認した。

 そこに紙一重の命がある時、岸辺には私の目視だけで30人が救助に駆け寄った。

 そして私も。それがもし、「オンナは近づくな、汚れる」「川は神聖だ」「川には女の神様がいる」と排除されたら、私はそう言う人間を軽蔑しそんな社会を嫌悪しただろう。

伝統とは「黙れ」という言葉である

 私が警察やレスキュー隊の端っこで命を探したその同じ日、土俵で命を救おうとした女性たちが「降りろ」と怒られていた。私には彼女たちの憤りが理解できる。

 排除の理由はどうだっていい。排除そのものが差別なのだ、という発想が、選挙時には生まれても、相撲には生まれない。伝統だからじゃない。慣れっこになった差別は、もはやそれを差別とも意識できないでいる。土俵に上がれなかった女性の悔しさは、女性市長だらけの時代にならないと共有できない。土俵騒動は数人の女性たちが傷ついただけで収束するだろう。なにが伝統か。外国人力士を認めたくせに。マイク使ってるくせに。スローモーションで画像確認しているくせに。伝統とはつまり、「黙れ」という言葉だと知ろう。

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