アンケートしたところで、朝に夕に、寝ても覚めても「ああ、土俵に上がりたい」と願う女性がいったい何人いるだろう。
知事でも上がれない、力士を生んだ母親でも上がれない、市長でも上がれない、人の命がかかった時のみ上がることを許される。が、男の医師がいればいいそうだから、その条件もあってないような許しだ。
じゃあ、妻の介助が必要な障害者が市長なら? 介助者もまたオンナだからダメか。命がかかればOKだが、命の危機しかダメか?
「命の危険の場合のみOK」という条件は、また新たな差別を生みかねない。理由は、目的が“排除”だからだ。
伝統に隠される排除の思想
かつて東京都知事が“排除”を口にした時、世間はその発想をバッシングした。だが、排除も歳月を重ねれば慣習になり伝統へと格付けされたら排除の発想は隠される。
排除に怒れる感覚を持つ現代の人々が、自分たちが生まれる前から続く排除には怒らない。が、排除されたのは、知事、市長クラスの女性たちだけだから、ほんの数人だ。この数人の怒り悲しみが、世間に共感されない。差別とは、当事者が理不尽だと感じる感情に共鳴する人がいて初めて是正されていく。
宝塚市市長が言った。「土俵に上がりたいのではなく、どの市長もやっているなら私も」というのは当然のことで、それを「お行儀の悪い」と叱りつける相撲知識人の発言こそ、排除の思想を隠すものだ。
圧倒的女性が専業主婦を選んだ時代に、「働きたいですか」とアンケートする愚に似て、圧倒的女性が相撲は見るものだと信じ込んでいる時代に「土俵に上がりたいですか」と聞く愚。
もし、「上がりたい」という感情があるなら、それは当然上がる権利がある人がオンナを理由に排除された時くらいじゃないか。私たちの深刻さは、救命に挑んだ女性が浴びた怒号や、排除された市長の悔しさに、共感できないところにこそある。さすが114位の国。