また、「この前、あいつと飲んだ時」という話題にも私個人は辟易としている。つまりはそういう露出の仕方もあるということで、なんとか仕事につなげたいから"飲む"、というわけだ。

 楽しい仲間と飲みたいから飲む、が理想でありたい。しかし、芸能界のいったいどこに"楽しい仲間"なんているんだ。全員ライバル構図において友達?本気か?と問いたくもなる。

 結果、"脚光"への憧憬や執着や期待めいたものがタレントたちの足を飲み会へ向かわせるのだと私は解釈している。

 本当は、飲まなくても、一緒に仕事をすれば分かる。その人がどれほど優秀かあるいはそうでないか。優しいかあるいはズルいか。配慮があるかあるいは強欲か。飲み会以上に、仕事をすると見える。

 それは、仕事の現場が何より必死さを求められる場所だからだ。本来の性格が露わになる場所とも言えよう。必死で生きたいと思うタレントは、そこにある権力へすり寄りもしよう。その生存戦略を責めようとは思わないが、ガチ喧嘩同様、それらが放出するある種のエグさに目を覆う視聴者もいるだろう。

 そうまでして、脚光を浴びたいか。そこには何もないのに…。

幻より数字

 脚光とはそれほど人を狂わす。窮地の男性が思わずニヤリと微笑んでしまうほどに。タレントが権力に媚びへつらうほどに。タレントがつるんで光の端っこに居たいと願わせるほどに。

 じゃあ何をモチベーションにお前は仕事をやっているんだと問われれば、私は、「数字のため」だろうか。このコラムの順位も同様、テレビでは視聴率だ。とにかくなんでもいいから一位を目指す。私のモチベーションはそれのみと言っていい。

 以前、二桁視聴率を取れたお祝いの宴席があった。プロデューサーたちに、仕事の大変さをうかがうと、意外な答えが返ってきた。

 私はてっきり、我儘なタレントたちに手こずっているのだろうなぁ、と予測していた。

 が、彼らの答えは「テレビに映った素人さんへの対応」だった。

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