ご相談
新年度がスタート。気持ちも新たに「仕事で成功したい!」と自らに気合を入れていますが、その一方で、「そもそも成功ってなんだろう…」と、ふと考え込んでいる自分もいます。成功とは、一発当てて脚光を浴びることでしょうか。大金を得ることでしょうか。人望を得ることでしょうか。(30代男性)
遙から
それは、いわゆる「森友学園問題」で国会の証人喚問に呼ばれた籠池泰典氏が、山本太郎議員の「梯子を外され、怒りを感じた政治家は?」といった質問に答えたときのことだった。「大阪府知事」との発言にざわめきが起こったが、私が着目したのは、繰り返される質疑の合間に、籠池氏がニヤリとした一瞬の表情の崩れだ。
なぜ微笑むのか。
彼は窮地に立たされている。誰に否があるのかなどは未だ解明されぬままながら、籠池氏が含みを持たせた「籠池砲」が炸裂するどころか、自らが火だるま状態に見える。証人喚問時にそれは予期できた。刑事訴追の可能性は自らも口にしていた。莫大な建設費の支払い、家宅捜索、本業の経営危機など、彼の前途は真っ暗に見える。
なのに、微笑んだ。
眩い光は現実を消し、幻影を映す
私はその表情に、脚光を浴びることの危険性、というものを改めて目撃した気がした。
総理大臣と一戦まみえる自分。メディアが作り出した強烈な脚光。それがもたらす麻薬的な快楽とでも言おうか。脚光は、メディアに消費される側というリアルな現実を見えなくさせ、脚光自体にまるで意味や価値があるかのような幻影をもたらす。
脚光=権力を得たかのような勘違いと言えばいいか。それは消費され終わった段階で、ただの幻影だったと知ることになる。
以前、松任谷由実さんがテレビで言っていた。
「成功は虹みたいなもの。そこには何もない」
深い言葉だと思った。誰からも憧れられる真っ白な成功でも、当事者は「何もない」と言い切る。勇気ある意味深な発言だと思った。
成功はチョー気持ちいいから、皆もぜひ成功しなよ、と安易に人を煽らないことに感動もした。
脚光の中心に居て、「何もない」と極めて冷静で理性的だ。
だが、つい先日まで総理の妻の知人であるというだけで喜んでいた一般人が、全国注視の中、脚光を浴びるとなれば、普通ではいられない。
完全に、舞い上がっている。
私がそう感じた一瞬が、籠池氏のニヤリにあった。深刻な未来が見えていてもなお、その場に酔わされる快楽、というのが"脚光"というものの真の恐ろしさだと私は思う。
真実とか善悪や是非は置いといて、そこにあった"ニヤリ"に、私は胸を痛めた。
脚光を求め、うごめく世界で
そう感じるのには、その脚光とやらを問い続けてきた私自身の芸能界の見え方にある。
脚光を求めて、自ら炎上するタレントもいれば、次々とプライベートな話題を提供する人もいる。自らの邸宅を披露したり、ガチで喧嘩してみせたり。
「そうまでしてテレビに出たいか」と、そういうシーンを冷ややかに見ている人もいるだろう。
最近、芸能界はいかがわしくなっている。詐欺まがいの番組が散在する。「あの時の真実を語る!」と2時間引っ張って、最後まで絶対、語らないとか。
なんだ、やっぱ語れないんじゃん、と、騙された2時間を返せと言いたくなる。他方でそれは、やっぱり語らせない何か怖いものがある、と、芸能界の闇を逆に映し出していたりするのだが。
また、「この前、あいつと飲んだ時」という話題にも私個人は辟易としている。つまりはそういう露出の仕方もあるということで、なんとか仕事につなげたいから"飲む"、というわけだ。
楽しい仲間と飲みたいから飲む、が理想でありたい。しかし、芸能界のいったいどこに"楽しい仲間"なんているんだ。全員ライバル構図において友達?本気か?と問いたくもなる。
結果、"脚光"への憧憬や執着や期待めいたものがタレントたちの足を飲み会へ向かわせるのだと私は解釈している。
本当は、飲まなくても、一緒に仕事をすれば分かる。その人がどれほど優秀かあるいはそうでないか。優しいかあるいはズルいか。配慮があるかあるいは強欲か。飲み会以上に、仕事をすると見える。
それは、仕事の現場が何より必死さを求められる場所だからだ。本来の性格が露わになる場所とも言えよう。必死で生きたいと思うタレントは、そこにある権力へすり寄りもしよう。その生存戦略を責めようとは思わないが、ガチ喧嘩同様、それらが放出するある種のエグさに目を覆う視聴者もいるだろう。
そうまでして、脚光を浴びたいか。そこには何もないのに…。
幻より数字
脚光とはそれほど人を狂わす。窮地の男性が思わずニヤリと微笑んでしまうほどに。タレントが権力に媚びへつらうほどに。タレントがつるんで光の端っこに居たいと願わせるほどに。
じゃあ何をモチベーションにお前は仕事をやっているんだと問われれば、私は、「数字のため」だろうか。このコラムの順位も同様、テレビでは視聴率だ。とにかくなんでもいいから一位を目指す。私のモチベーションはそれのみと言っていい。
以前、二桁視聴率を取れたお祝いの宴席があった。プロデューサーたちに、仕事の大変さをうかがうと、意外な答えが返ってきた。
私はてっきり、我儘なタレントたちに手こずっているのだろうなぁ、と予測していた。
が、彼らの答えは「テレビに映った素人さんへの対応」だった。
「自分が映ったじゃないか」系、「取材に協力したのに思ったように映っていないじゃないか」系、「まんまカットされたじゃないか」系、「ああいう編集とは聞いてなかった」系。
プロデューサーたちは、脚光を浴びてしまった素人さんの舞い上がった後の、想定外の着地への怒りの対応に苦心していた。
取材には快く協力してくれるのだ。だが、取材を受けた側のイメージ通りに番組が仕上がるわけではない。
全部カットもさることながら、親戚からの感想、知人からの感想に、いちいち傷つく被写体としての素人さんがおり、「脚光を浴びるということはこういう現実が待ち受けるのか」という、我々タレントが、なって初めて知る、やがてあきらめる、脚光の残虐性、というものに素人さんが耐えきれるはずもない。
そのクレームに、ひとつひとつ対応しているのが、実は、番組責任者で"怒られ役"のプロデューサーたちだ。
リスクしかない
たかが、バラエティ番組の数十秒に素人さんが映るだけで、この衝撃と鎮静という後始末の仕事がある。脚光を舐めてはいけない。脚光を浴びている間は、人の目が快楽や権力やらを獲得したように錯覚をさせもしよう。だが、現実は違う。
ユーミンがそこに「何もない」と言ったが、私程度で申し上げるなら、脚光を浴びたそこには「リスクしかない」と伝えたい。
素人さんなら耐えがたい想定外のリスク。そして、籠池氏にこの先、待ち受けるであろうリスク。
怒号渦巻く国会の中心人物としてメディアで総理と対立軸に位置づけられたこと。これは、うっかり微笑んでしまうほど、"快楽"だったと、私は睨んでいる。
「売れるって、それほど値打ちがあることだろうか」と、プロデューサーに問いかけた。
彼は言った。
「せっかくこの職業についたのだから、一度くらい、一瞬でも売れてみては?」
他のプロデューサーは「いや。一度では落ちぶれた感が出る。売れるならずっとだ」と言った。
じゃあずっと売れ続けているタレントの顔ぶれを見た時に、それがなりたい姿かと言えば、違和感がある。私は毎日テレビに出ることは遠慮したい。自由がいい。
自分が売れる、脚光を浴びる、ということではなく、自分がかかわる番組なり作品なりが、一位を取れる。その喜びを皆と共有する。あのキャッホーイ!という感覚。
まったく、友達でもなんでもない制作者たちと心から乾杯できる感覚。それは、素直にモチベーションアップに繋がっている。
芸能界は志の異なる者の集合体だ。
脚光を浴びるために手段を選ばないタイプ。権威に好ましい発言をし、権威の機嫌を取るタイプ。すべての視聴者から好感度を得たいタイプ。ずっと時代を超えて「ここに我あり」という存在自体への執着タイプ。
番組も数字を取るためには志の違う店構えだらけだ。
制作する側の狙いどおりに道を外れないことを良しとする番組は、お行儀のいいタレントを重宝がる。製作者の狙いを超えて違うステージに行ってくれることを願う番組は、暴れてくれるタレントを重宝がる。
それらの大前提としてある、それらが狙うものとしてある、"脚光"を浴びるということ。
カネかヒトで
脚光が先か、数字が先か、ではない。地味に数字を取る番組もある。脚光を浴びた後、転がり落ちるタレントもいる。脚光は常にリスキーだ。脚光に比べたら、数字を取るほうがはるかに手堅いと私は感じている。
スターを生み出し続けたあるプロデューサーに問うてみた。
「脚光を浴びたタレントが、勘違いを起こすのを見たことがあります。その勘違いから、いつ現実に戻りますか?」
答えは、「人はたった一日で勘違いします。一度勘違いしたら、すべての仕事を失うか、大病になるかしないと、元には戻りません」
一発当てて脚光、は、私は最も薦めない。薦めるなら、カネかヒトだ。