ご相談
相撲やレスリングの「騒動」に関する記者会見を見ていて、とても違和感を感じました。およそその競技と縁のなさそうな人が、その協会を代表する立場で、何だかとても偉そうにしゃべっていることに、です。なんでこんなことになっているんでしょうか。(20代男性)
遙から
最近続く違和感。
それは、なぜ女性リーダーの言葉に説得力がないのだろう、だ。
女性登用、女性活用、女性管理職、と、あきるほど聞いてきた言葉だが、実際、その女性が登りつめた上でのある地位に到達した時、そこから発せられる言葉に、残念な気持ちを繰り返し感じている。男性リーダーでもとんでもない失言を繰り返しつつ、その対応策ばかりを磨き上げその地位に残り続ける人もいる。だが、女性(と、ひとくくりにするのはよくないが、少なくともここのところメディアに登場する女性たち)のリーダーには、あきらかな失言レベルというよりも、その言葉を聞いた大勢の人々にどうやら相当に強い反発感情を抱かれている。
「正しい」けれど…
例えば最近では日本相撲協会評議員会議長の池坊保子氏の発言。貴乃花親方の弟子が暴行問題を起こした際、
「再発防止で様々な取り組みを行っている最中に、また暴力が発生した。応援してくれる方々に失望や落胆を与えたのではないかと心を痛めています」
・・・とても正しい事を言っている。評議員会の議長なのだから、立派なことを口にして当然だし、訓示に近い発言も是とされる立場だ。なのに、イラッとくる。「天知る 地知る 人知る 神様っているんですね」という発言も同様、私の感想は「正しい。が、イラッとくる」だ。
貴乃花親方のこれまでの言動に対し、賛否は両論あろう。議長として批判するのもそれは自由な立ち位置かと思う。批判したいなら批判すればいい。議長としての失望、詫びめいた発言に加え、ことわざに例える皮肉も別にいい。しかし、聞いた人々に残る感情が「イラッ」だけでは・・・。
また、少し前に会見した至学館大学長にして日本レスリング協会副会長の谷岡郁子氏も、怒りマックスで登場して、どういう空気の変化をもたらしてくれるのだろうと期待したが、ただ、怒っただけだった。
「私の怒りは沸点に達しました。もう我慢できない。私は本当に怒っています」
私は怒っています、と、公共に発信するという行為には、重大で無視できない意味と価値が自分にはあると信じている人がする行為だと思う。
是非は置くとして
他方、前国税庁長官の佐川宣寿氏。証人喚問での発言で、野党議員から「理不尽だと思わないのか」と問われ、「仕事ですから」と答える姿に、自分の感情など何の意味も価値もないと達観できる熟練の技を見た。そんなことよりも、守りたいもの、守らねばならぬ何かがある。そういった信念を感じる答弁だった。佐川氏の態度の是非論はちょっと横に置いておく。
佐川氏もまたちょっと前まで組織のリーダーだった。
彼がもし、「理不尽だと思わないのか」に対し、「僕は本当に怒っています」と発言したなら、私はその幼さに失笑したかもしれない。
組織で働いてきた男のプロ根性を見た気がした。理財局長の大田充氏も同様、自民党議員の「陥れようとしたのか」に対し、「僕は本当に怒っています」とは言わず、「それはいくらなんでもご容赦ください」という日本語を選んだ。
どれほど屈辱でも、「怒っています」という言葉ではなく、「ご容赦ください」と言えるプロ根性。
彼らは、窮した時にとても頑なに低姿勢でウソも本当も見えなくさせる技術を習得している。国会答弁は、記者会見以上の神経の緊張と疲労を伴なうだろうに、それでもそこで見えたものは、彼らは何かのために、なんらかの利益を守るために、徹底して言葉を尽くす姿だった。
組織で働くということは、まずは自分の感情をいったん棚に上げて、その役割を貫徹することを言うのだな、と、"官僚"という職業を選んだ男たちのプロ意識を見た気がした。もちろん、その是非は置くとして。
比して、前出の女性リーダーたちは、一人は議長、一人は副会長にして学長、どっちも立派な地位だ。
彼女たちが守りたいものは、相撲の未来であり、レスリングの未来のはず。だが、それが残念ながら全く伝わってこない。
谷岡氏は
「パワーのない人間によるパワハラが一体どういうものであるか、私には分かりません」
その世界観は・・・
もう、ワケがわからなくなって怒っている。パワハラとは、組織下部の者が上部から感じるもので、組織の頂点の学長には「チキンハート」にしか映らない人でも、その人が然るべき地位にあれば、その「下部の者」がいるのですよ、くらいも、教えてくれる人はいないのか。
栄和人監督の短所を並べたてるも、あるいは、伊調馨選手との出会いのエピソードを感涙っぽく語る姿も、テレビが映しだしたレスリング界の要職にある者の姿は、その独自の世界観を露呈させた。
即ち、感情的で、極めてシンプルな思考回路で、情に厚く、情にもろく、なぜこれほどバッシングを受けるのか、理解ができない、というところで思考が止まるも、この“私”が会見することに重要な意味があると信じている。そんな世界観だ。
池坊議長も、テレビが映しだしたのはその独特な世界観。即ち、礼が大事。正しいことが好き。悪事はバレる。神様はいる。といった価値観を、この“私”が会見することで相撲界と世間に大きな影響を及ぼすと信じている。そんな世界観だ。
「この私」って誰?
正直な感想を言おう。
・・・二人とも、何とも幸せなリーダーだ。
艱難辛苦、敵から「理不尽とは思わないか」と同情されても微動だにせず「仕事ですから」と言い放てる男と、どっちが苦労しているかは、その人の吐く言葉を見ればわかる。
池坊氏も、谷岡氏も、「お嬢様」だ。
そのスタート地点から恵まれてリーダーになった。もちろん、本人の自覚では苦労と努力の人生だっただろう。それを否定するつもりはない。
しかし、残念なほどにその言葉には、人を惹きつける力がない。
それはやはり、「この私」の力を呆れるほど過信しているからだろうと想像する。
そして、多くの相撲界の人々が、多くのレスリング界の人々が、なんでこの人たちが、自分たちの「上の者」として肩をそびやかしているのかと首を傾げているんじゃないかとも想像する。
実はとても尊敬を集めているのかもしれないが、彼らを擁護する「その界の人々」は現れていないようで、私の想像はそう外れていないのではないかとも想像する。
もしそうだとすれば、そういう場合の「この私」的登場は、まずそれだけでカッコ悪い。
せめて相撲やレスリングを「守るべきもの」と本気で考えていることが伝わってくれば、これほどの違和感にはならなかったかもしれないが、改めて思い返しても、やはり「この私」の印象しか残っていない。
少なからず、いる
「この私」モードの人に必要なのは、まず自分が、世間的には「この人、誰?」という程度の存在であるという自覚ではないか。
若者に絶大な人気を誇るミュージシャンも、年配の人には全く知られていなかったり、スポーツの人気選手も、その競技に関心のない人には全く知られていなかったり。そんな世の中だと理解するところから始めた方がよかろう。
そもそもの世界観が世間とズレがある。それを我々は「お嬢様」と呼ぶ。
もちろん、恵まれた環境で育っても、謙虚で、理知的で、胸打つ言葉で人を惹きつけてやまない人は、少なからずいる。
先般の会見が拡散した違和感が、「女性リーダーはダメだ」というような、とんだお門違いの言いがかりにつながらないことを切に願いたい。