地雷は実名告発の他にもある。

 この騒動の悲劇性を物語る研究者の死を「お隠れになった」と表現する。

 彼女は真実を書いたのか。“真実”に正対するなら、"お隠れ"ではなく、自殺、自死、だ。

 「STAP現象を再現することはできなかった」という“結論”については、「目視で判定できるようなキメラマウスができなかった」のだと小保方氏は反論する。

 …で?STAPは?…、と思う。

 こうなるともう、真実を書いたはずが、読み終われば、いったい何が真実なのかさらにわからなくなった、というのが私程度の頭での正直な感想だ。メディアの過熱報道やバッシングは、それを本職にするタレントでも休業宣言するくらいだから、「研究者」がそれを経験することの苦痛は想像に余りある。それとは別に私が思う痛さとは、早稲田に行き、博士論文を書き、ハーバードに行き、世界的科学雑誌に自分の研究が掲載され、一躍、時の人となった女性が、そのすべてを失ったと記す物語が、結局、誰に向けて何を伝えたいのか、見えないことにある。

 研究者を取り巻く生々しい人間関係を、ある角度から切り取った物語。それを読みたいのならば、読んでみるといい。が、その主人公が、どこに向かおうとしているのかは、私には見えなかった。

すべてはあの日に

 人生はいったん間違ったり失敗したら、一瞬で転がり落ちるモロさがある。そうした例は数多く目にしてきたが、今、多くの人が思い浮かべるのは、覚せい剤で逮捕された清原和博氏の例か。

 清原氏のことをビートたけし氏が「結局すべてはあのドラフトにあると思う」とテレビ番組で言っていた。思わず膝を打った。他方の青年は光を浴びる人生があり、ドラフトの「あの日」に巨人軍に選ばれなかった方の青年は紆余曲折を経て後に巨人軍に入っても、結婚しようが子供を持とうが、築きあげてきたものを失った。すんなり巨人軍に入った側の地味なパーソナリティに比べ、あの時選ばれなかった側のその後の派手さは、"ここに俺あり"と常時主張しないではいられない、後に巨人軍に入ったからといって一件落着とはいかない“収まらなさ”の表れであって、そこには「あの日」の“傷”が影を落としているように思えた。

 もちろん、それをもって罪が減じられるべきなどと言いたいわけではない。あれこれ指摘されるもっともな問題点に頷きながら、なんともモヤモヤしていた私の中に、ビートたけし氏の一言が、すっと入ってきたという話だ。

次ページ ひと言のために