ああ、こういう人は妻に対してもこんな感じなのだろうか。例えば、家事の大変さにも関心はなく、ちゃんと話を聞いてあげることもないのだろうか。そんなことをふと考えていた矢先、その男性の妻が病気で他界した。その後、毎日「誰か、僕と食事を付き合ってくれ」という姿が会社で見受けられるようになり、やがて会社を辞め、病気になったと聞いた。
私は、やはりそうなったか…と思った。自分以外に関心がないその男性は、目の前の食事がどれほどの手間暇を妻がかけて作ったものかに恐らく関心がない。冷蔵庫には常に新鮮な牛乳があって当然、料理は帰宅さえすれば自動的に身体に優しいものが出てきて当然、布団は季節に合うものが自動的に敷かれていて当然、風呂はいつも清潔で、洗面所には毛一本も落ちていなくて当然。そんな男性にとって、それら生活の基盤の大前提が突然消えてなくなったら、地球がひっくり返ったような衝撃を受けるだろうと想像する。
「強さ」とは
昭和の激動の時代を仕事漬けで駆け抜け、家庭を顧みぬまま年を重ね、地位を得た男たち。もちろん、仕事も家庭も大事にしながら生きてきた人たちもたくさんいるはずだが、残念ながら私の周りは、妻の有難みがわかっていない人が目立つ。兄や先述の男性にとどまらず、改めて見渡せば、そんな人が結構いる。彼らを「昭和の男」とくくるのは、ちゃんとした人たちに失礼なので、ここでは「昭和のダメ男」としておく。
昭和のダメ男たちは、例えば洗濯機の使い方も、炊飯器の使い方もろくに分からないまま、いわゆる"暮らし"というものにある日、突然向き合う。"暮らし"というものがいかにエネルギーと時間を必要とするかを理解せず、その継続がちゃんと日々に組み込まれていないと、人間はいとも簡単に身体と精神を壊す。人間は意外とモロイ。
今の時代、強い人というのは、まず自分で“暮らし”を継続して営めること。営める程度の生活費を稼げること。そして自分以外の他者に関心を持てること。昭和のダメ男がなかなか揃えられない三つの力が、私は「強い男」の条件だと思う。
我が兄は、はなはだ心配だ。少しは自覚を持ってもらわなければいけないが、過大な期待は禁物だろう。ここは兄嫁になんとか踏ん張ってもらうしかない。
昭和のダメ男たちが教えてくれるのは、「強さ」とは、意外と地味な力であることだ。
特別な人が持つ特別な力ではない。遅ればせながらでも、その気になりさえすれば、持てない力ではない。

『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』