ご相談
部下がちょくちょくミスを犯します。仕事ぶりはすこぶる熱心なのですが、一向にミスが減りません。いっそ、明らかに手を抜いているほうが注意もしやすいのですが…。(50代男性)
遙から
間違いを犯す人というのは、そう、こんな状況の人だなぁ、というのが、先日の小室哲哉氏の引退会見だった。
不倫疑惑騒動がきっかけとなって引退発表に至ったという小室氏の100分間に及ぶ発言については、すでに様々な観点から様々な意見が飛び交っている。私が出演した番組でピックアップされた小室氏の発言をたどる中でも、「不倫疑惑と引退とは別ものだろ」とか、「介護の大変さと不倫疑惑をすり替えるな」とか、「妻のプライバシー権を犯す必要はあったのか」などの意見が出ていた。
そんな中で私にストレートに届いたのは、彼の「疲れた」という言葉だった。
こういう議論も論争もまた、彼にとっては「疲れさせられる騒音」としか聞こえないことだろう。
100分に及ぶも…
彼は彼を主体にして喋った。だから、聞く側が「なにもそこまで」と感じるような、自身の性的能力の事情や、妻の脳機能障害の現実への落胆や、音楽的才能への限界、果ては、高齢化社会における介護と社会が孕むストレスの問題を世間に言及するまで、最後にはテーマを広げてみせた。
そこまでくると、「おいおい」と突っ込みたくもなるほど、不倫疑惑から、高齢化社会への提言まで広範にわたる発言が約100分続いた、ということだ。
この脈絡のなさこそが、「疲れた」ことの表れだと感じる。会見やプレゼンなど、人前で喋る時に最も必要なのは、誰に何を届けるか、そのために何を取捨選択するか、の、文章構成力と、言葉選びのセンスだ。それらが欠けると、収拾のつかないとっ散らかって時間ばかりかかる、最後にはいったい何を言いたかったのか、焦点のボケたスピーチとなる。
もともと、喋る職業なら、こういう場当たり的なスピーチで、とっ散らかる失敗経験を踏むことで、構成や言葉選びなど、伝えたいことを適確に表現する方法が洗練されていくわけだが、今回の小室氏の発言を聞いていると、それは、当事者による当事者のための当事者性、しか感じられない発言だったように思う。
これを言うことで、妻がどう思うか、とか、社会的にどういった批判がくるか、とかいう想像力のフィルターを通さず、あるがままに、正直に自分を語った。およそ、脳裏に浮かぶもの、日頃感じてきたもの、それらすべてをぶちまけた。
そうしたら、不倫疑惑騒動への釈明のために、妻の病状の公開、介護の疲弊、性的能力の低下、自身の病気、かかえるストレス、才能への自信欠如、疲れて引退、日本の高齢化社会への懸念、と、裾野が広がった発言になった。
彼は、おそらくだが、それら当事者性の実感、というものを、他者目線で取捨選択したり、絞ったり、ということが、まず、できなかったのではないか。それが会見で最も私が感じた彼のあり様だった。
その状態こそが…
結局ひとつひとつの発言を取り上げてテレビでは議論がなされているが、言葉の取捨選択がうまくなされていない彼の状態こそが、彼が一番に発しているメッセージだと思う。
そういう体調で、精神状態なのだ、と、聞く側が理解せねばならないケースだと感じた。
彼がかかったという肝炎だが、慢性疲労もつきまとうことだろう。介護の疲労に加え、肝炎の疲労、そして、この騒動だ。我々が想像する以上に、本人は疲弊している。疲れ切った男が、記者会見で「疲れた」と証明してみせた。
その発言ひとつひとつを切り取る意味が、それほど重要だとは私は思わない。
そして疲れた時に、起こしやすいのがまた、判断ミスだ。
彼は、引退を決断した。この判断は、正しかっただろうか。私のいう正しさとは、疑惑騒動の鎮火を狙う判断として、とか、なにもそこまで追い詰められなくても、といった心情的なことを指すのではなく、「疲れた人が、引退するのは正しいか」ということに尽きる。
つかの間の…
彼はそもそも何に疲れたかというと、介護だ。
介護をした経験がある人ならわかるだろうが、介護に、逃げ場があると救いになる。
それは、同じ介護をする仲間のサークルだったり、助けてくれる人だったり、形はいろいろあろうが、私自身が介護をしていた時期には、仕事が逃げ場だった。介護の親を置いて、後ろ髪を引かれながらも、局入りするとホッとしたことをよく覚えている。
仕事に集中している時だけは、介護を忘れられた。そうして意識の外に追い出したことを後に自責もするのだが、少なくとも、仕事は介護を忘れさせてくれる束の間の息継ぎだった。
小室氏の場合、音楽の仕事に加え、女性関係もまた心の支えとなって機能したのかもしれない。性的能力云々など関係なく、彼は押し寄せてくる疲れから、仕事だけでは逃げ切れず、女性にも逃げた。と解釈するなら、今、彼に必要なのは、"逃げ場"なのだ。
その逃げ場を疑惑騒動でふさがれ、才能への疑念を理由に引退をし、音楽活動を停止したならば、そこに何が残るか、というと、介護だけの生活、となる。
ここが大きな矛盾としてある。彼は「疲れた」といって、引退を決意した。彼が戻る世界は、彼を疲れさせた介護しかない、というのに。
こっちのほうが大きな懸念材料だ。「騒動のけじめ」という言葉は美しく聞こえるが、現実はもっと過酷で、まだ若い妻、これから長く続くであろうその介護だけと向き合う世界で生きていけますか? という危うさを、本人はどこまで分かっているのだろう、と思うのだ。
小室氏は、かつて詐欺事件で逮捕という経歴がある。
そこに至る経緯も、自身の社会的地位を鑑みれば、なんと判断を誤ったものよ。バレないとでも思ったのか、と、当時、判断ミスを感じた。
そして、今回もまた、数々の判断ミスを、重層的に感じたのが、記者会見だった。
至極当然の…
肉体と精神が疲れ切った状態で、まず、記者会見に挑む、という判断ミス。
言葉やメッセージが「言っていいこと、悪いこと」が整理整頓されないまま、ジャジャ漏れの水道の蛇口のように、とうとうと流れ出る彼自身の当事者性からくる言葉の羅列を“記者会見”として成立させてしまった、という判断ミス。
介護から逃げられる音楽活動を捨ててどうするのだ、宣言することで、もうあなたの世界は、介護だけになっちゃったじゃないか、という自覚のなさ、の、判断ミス。
疲れていると、数々の判断ミスを起こしてしまう。今、小室氏はとてつもなく極限的に疲れているはずだ。そんな状況で判断ミスを犯した。至極当然のことだ。
小室氏は、男性機能を理由に不倫は否定したが、そんなことも関係ない。手をつないだだけでも浮気だと怒る妻も多かろう。他方で「妻が病気で夫婦関係を維持できない場合、夫が浮気してくれることでホッとする女性もいる」とかいう、男目線の身勝手なことをのたまうコメンテーターもいるが、不倫がいいとか悪いとか、もうそのあたりは論じない。
必要なのは…
問題は浮気したか否かではなく、他の女性にすがるほど、介護はきつく、それは、本来最も集中できたはずの音楽活動でももはや癒されないものになってしまった、ということ。そこに自らの病気も重なってしまった。
「疲れた」人は、判断を間違いやすい。
小室氏への応援があるとするならば、それは、浮気擁護論でもなく、才能を潰すな論でもない。長い介護期を過ごす人に必要なもの。それは、異なる世界と人だ。
才能があろうがなかろうが、好きな音楽の世界。そして、他者の介入。
彼はその二つを切った。
とにもかくにもひとまず、しっかりゆっくり休んで、もう一度、考えたらいいと思う。