ご相談
年末年始、実家に帰り、両親とあれこれ話をしていた折、「私たちは家族葬でいいからね」と言われました。突然のことに驚きながら、両親も年を取り、そんなことを考えているのだと思うと、何だか胸が締め付けられるような気持ちになりました。改めて両親を大事にしようと思いながら、自分もそうしたことも考えておかなければいけないのだなと気づかされました。「おくり方」も多様化する中、遙さんが考える「いい葬儀」について教えてください。(40代女性)
遙から
新年早々こういうテーマはいかがなものかとも思いつつ、最近の潮流としての"家族葬"などについて考えてみたい。
折しも、私の身内に不幸があり、家族葬を経験することになった。年末のことだ。
大阪市内では焼き場がなく、葬儀は大阪で、火葬は隣接した他の市にバスで移動となった。どうやら年末はもっと不幸が多かったようで、年末ぎりぎりに身内をおくった知人は火葬場待ちで4日間もご遺体をそのままの状態で保存せねばならなかったという。
いずれ、団塊の世代が終焉を迎える頃には葬儀場が足らなくなるとは聞いてはいたが、すでにそれが始まっていると実感した。
自宅から斎場へ
過去、いろいろなおくり方を経験してきた。
最初は、自宅での葬儀。町内会の婦人会の方たちがこぞって朝5時から起きて準備してくれ、そういった地元ならではの人のつながりにも感謝できる経験だった。家での葬儀には、故人が在りし日々を過ごした場所で偲べる情緒がある。が、慌ただしい中で慣れぬ準備にあれこれ追われ、来客を迎えるための食事の準備や接客など大変さも半端ではない。
その経験をもとに、次の葬儀は大きな斎場に委ねることにした。場所も分かりやすく弔いの宴席もすべてセット。どういう葬儀にするかを業者と打ち合わせ、当日はその通りに、恙なく葬儀が運ばれることとなった。
大きな斎場はさすがに慣れていて、例えば喪服の着付けについても「帯締めは通常のように二重で結ばず、不幸が続かぬように一重で結ぶんです。そして、ヒモの端の処理は端を上に挟むのではなく、悲しみ事なので端が下に来るように仕上げるのです」などと係の人が教えてくれる。
日本古来の着物の着方にも、ハレの場、悲しみの場、それぞれに着つけが異なる。分からないことが次々に出てきて不安になりがちな葬儀に関して、そういったプロがいてくれるのは何かと心強い。
そして今回は家族葬。どんどん葬儀が簡略化、効率化、プライベート化されていく中で登場したスタイルを初体験することになった。
家族葬のいいところは、葬儀が終わって以降の弔花の返礼などの手間が省け、あっという間に終えられるところだ。つまり、“楽ちん”なところだ。
謳い文句は謳い文句
だが、「?」が浮かぶことも、いろいろ見えてきた。
家族葬と低価格というのはセットだ。業者も低価格を謳い文句に営業する。だが、後に喪主に聞くと、「どんどん追加料金が派生し、当初の謳い文句どおりの料金で収まらなかった」という。
例えば、セット料金にある棺には遺体が微妙に納まりきらない。両手足を伸ばした状態で納棺するには大きいサイズの棺に変更する必要があり、「膝を折って棺に入れますか? ヒザを伸ばして棺に入れますか?」と喪主は選択を迫られる。おくる側の心として後者を選ぶと「追加料金」となる。その理由は「通常、棺はすでに身体が委縮した高齢者向けの小さめのサイズにしており、普通の体格の人のサイズの棺は別料金」という理屈だそうだ。
故人は特別デカい体格ではないが、普通の身長であることですでに「小さくないから特別料金」ということだった。
そして、そこからが次々と追加料金が発生することとなる。
「大きい棺なので車も大きめのものになります」。だから追加料金。
「棺だけではなく家族も同行するならそれ用の車に変更しますので」。さらに追加料金。
といった風に。
高齢社会をすでに背負う読者の皆様に、ごく個人的な経験ながらお伝えしておきたい。良心的な家族葬を営む業者も当然あるだろうが、低価格を謳う業者の中にはこうやって、やむなくどんどん追加料金が重なるケースもある。“謳い文句通りにいかない家族葬”があることにご注意いただきたい。
参加する側の「?」も発見した。"家族"つまり"来るのは身内だけ"という意識から、これまでの葬儀とは異なるシーンが展開された。
まず服装。パリッとした喪服ではなく、黒ならとりあえず何でもいいだろう的な、アイロンなどかかっていない普段着の黒のよれよれパンツで来る。その場が"式"だと思えば、それが他人の眼もある斎場なら、最低限のマナーとして喪服を着ていた人が、身内だけ意識から正装という概念を崩す。
また、子連れの多さ。いわゆる通常の葬儀では、厳粛な式の間、静かにしているのが難しい幼い子供たちは連れていかないケースが多いのだろう。斎場で大勢の子供たちが所狭しと走り回るような光景をあまり見た記憶がない。
だが、家族葬だ。気を使う必要はないのだから、子供をみんな連れて行こう、となる。そうして各家族の子供たちが出会うと斎場の親族待合室は保育園化する。家族葬専門の業者が仕切る待合室がいくつも並ぶロビーでは、子供たちが走り回り、はしゃぐ声が響く。
これは骨です
焼き場ではちょっとした議論が噴出した。あまりの子供たちの明るい騒ぎ様に、ある親族が提言した。
「火葬場のお骨拾いの時は、子供の参加はマナーとして避けるべきではないか」
諸々意見が出た末の結論は
「それぞれの親に判断を委ねる」
結果、それぞれの親が出した答えは、同じだった。
「子供の教育にもなるからお骨拾いの場にも参加させる」
そして、ひとりの人間が人生を終焉させる式のクライマックスともいえるお骨拾いの場で、何やら違和感のある光景を目撃することになる。
幼児が母に聞く。
「これなに?」
「これはね。骨よ。ホネ」
「ホネ?」
「そう。ホネ。熱いから触っちゃダメよ」
「ホネ、あっちー?」
「そう。あっちっちだからね」
…葬儀の場を教育の場にしたっていいじゃないか。だって、家族葬だものね…。
お隣のご遺体
ちょうど、お隣りのご遺体も焼き上がった。
隣りの方の骨の周りには、悲しみを隠さない喪服姿のご高齢のご身内方が神妙に厳粛に、ひとつひとつご遺骨を骨壺に収めていった。
私は素直にうらやましかった。せめてその日一日くらいは、悲しみと厳粛さをしっかり感じていたいと思い、そんな自分の気持ちにしっくりくる光景だったからだ。
現実に戻れば、帰りのバスの中もキャッキャと賑やかだ。子供好きの青年たちが幼児をあやす。まるでピクニックに行くような雰囲気だ。喪主が膝に乗せた骨壺がピクニックのお弁当かと思えるくらいに。
最近、地域レベルでの家族葬専門の業者が増えている。まさしく駅前葬儀と言おうか。私の経験では"身内だけ"ということが厳粛さを溶解させ、緊張からも他者の眼からも解放され、安く、気軽に、手軽に、自由な、葬儀だった。
盛大な葬式を手放しで肯定するつもりはない。高い金を払えばいいというわけではないし、カジュアルな葬儀も、明るい葬儀だってありだと思う。
例えば、故人が明るい葬儀を望み、おくる側も「いかにも彼・彼女らしい」と故人を存分に偲びながら、泣き笑いしながらドンチャン賑やかにやるなんてオシャレじゃないか。
料金でもなく参列者数でもなく
しかし、故人の扱いが軽くなるのは、違うと思う。
家族葬にしても、「真にその人を想う人だけで」の家族葬。「いいじゃん。家族だし」が優先される家族葬。金銭的な制約からやむなく選んだ家族葬。様々な家族葬があるだろう。
私は近い将来、「いいじゃん。地味なジャージで」の家族葬の時代が来ることを確信する。その先、「いいじゃん。焼くだけで」との境界線は、もう紙一重に感じる。
故人を偲ぶ列が絶えない盛大な葬儀も、ジャージ家族葬も、私は否定しない。
私の小さな望みは、故人に思いを致し、厳粛に過ごすしばしの時間を大事にしたいということだけだ。