さて、こういった現代アートと地域おこしの現場をいくつか拝見するようになって、最初のうち、どうも引っかかることがあった。現代アート、特に一部のコンセプチュアルアートの持つ同時代性というか「今おもしろい」という性格。これと、地域おこしというじっくりと長い時間軸でなされる営みとの間に微妙な「ずれ感」を感じていたのだ。

 アートは好きだが、あくまで素人なので、的外れな見方かもしれないが、たとえば有名なマルセル・デュシャンの「泉」という作品。男性用小便器を横置きしただけの作品だが、「鑑賞者自身が、いわゆる芸術作品ではなく日常的なものを“いままでと違う見方で見る”」ことを、それまでにない新しい芸術のあり方として示した、とされている。

従来とは異なる見方を、創造的に提示する「現代アート」

 こういう現代アートは、あくまでそれまでの美術の流れを理解していてこそ、その新規性や独自性を「芸術」として受け取ることができる部分がある。コンテクスト(文脈)あってこそ、新しい現代性を持つアートして成り立つ、という性格があるのだ。

 意地悪な言い方をすれば、「頭でわかる」ことが求められるということだ。(もちろん、発表当初は、常識的なアート感の持ち主たちにショックを与えるということが意味を持ち、その後、その新規性が批評家等によって次第に明確に言語化されて、広く認められるようになる、というプロセスを経る。したがって、最初からコンテクストを理解した人が「頭」でわかる、ということを狙ったものではないことは理解している。)

 一方、地域おこしという営みは、次第に往年のにぎわいがなくなり、若年人口の減少とともにどんどん元気がなくなる地域を対象に、地道にその地域なりの特徴と魅力を掘り起こし、アートやスポーツ、あるいはワイナリーなどの農林水産とつながる産業を盛り上げることと組み合わせて、交流人口増と定住人口増を少しずつ実現していく、という息の長い取り組みだ。

 見逃されてきた魅力、というコンテクストを再定義する、という行為でもあり、「今までの常識とされるコンテクストを踏まえて、それと異なるものの見方を創造的に提示する」という現代アートの(少なくとも一部の)方法論とは、どうも肌合いが異なる。そして、コンテクストの再定義にあたっては、頭でっかちな理屈よりも、「元々ある心揺さぶるもの」を地元の人中心に再発見する、という非言語的な行為が先にあるべきではないかと感じていた次第。

心の奥深くを揺り動かした、東山魁夷の「道」

 少し論旨から脱線するが、ごく個人的な記憶について、触れさせていただくことをお許しいただきたい。まず、正直に告白すれば、思春期前から、同じ芸術でも、音楽は古いものでも新しいものでも、「これは良いな」(あるいは「これはちょっと違うかな」)という感覚があり、自分なりのものさしも次第にできていったので、音楽という芸術はそれなりにわかったような気がしていた。しかし、絵画や彫刻を中心とするアートについては、どうもそういったしっくりくる感覚をもてなかった。

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