一方、この葬儀に故人の遺志で招待されなかったと伝えられるトランプ大統領、そしてその支持者たちは、どう考えてもこういった価値観を共有しているとは思えない。

 また、トランプ氏の言動からは、政敵と相互信頼関係に立つことが良いことだという思考は、彼の信条とまったく相いれないように見受けられる。

 彼の支持者たちにとっては、「美しい伝統的な米国的価値観」は限られたエリートたちのもので、くそくらえ。自分たちの不満や苦しみを和らげてくれる可能性があるならば、そんなエスタブリッシュメントの価値観をぶちこわす言動を繰り返す、トランプ氏こそが希望の星だ、ということになる。

 この極端な違いをどう受け止めるべきなのだろうか。よく言われるように、トランプのアメリカとそれ以外のアメリカ、2つの別の国が、米国の中にあるとしか思えない。

 もちろん、米国の「価値観」の中には、無意識のうちに、他の文化体系や価値観を見下すような部分が含まれている。また、従来から米国の国益のためには「タテマエ」ではなく「本音」に従い、随分身勝手な行動をしてきた例も多々ある。中東で反米政権に対抗する反政府勢力に援助をつづけてきたことは、その一例だ(ちなみに、その一部は、後に反米テロリスト組織へと変貌した)。

 ただ、この建前としての価値観は、欧州や日本を含め、多くの国や地域でそれなりの普遍性をもって受け止められ、民主主義と自由貿易というグローバルルールの根幹となってきた。これは米国の軍事力とも組み合わさって、世界のガバナンスシステムも形作ってきた。

 最近、『武士の日本史』(高橋昌明著、岩波新書)という大変面白い本を読んだのだが、その中に、中世の典型的な合戦の様子が出てくる。

かえりみられなくなったいくさ始めの作法

 両軍は、自軍の前に楯を並べ立て、約55メートルから109メートルの距離を隔てて対峙する。鬨の声を三度あげてから、いくさ始めの作法として音を発する鏑矢をそれぞれの陣営の騎馬武者が射て、弓矢による戦闘が始まる、のだそうだ。

 これは、ある形式化されたルールの下で戦闘行為を行うという共通理解があってこそ成り立つことだろう。時を経て、戦国時代になり、銃や槍が兵器の中心になってからは、当然このような「約束事」は時代遅れなものとして、かえりみられなくなったようだ。

 オバマ氏やマケイン氏、あるいはここでは触れなかったがブッシュ氏にも共通する「価値観」と政治論争上の「約束事」。これが、中世の戦の「作法」と同様、時代遅れなものとなっていくのかどうか。今はその重要な分岐点にあるのだと思う。

 内向きの米国政治、あるいは世界のあちこちに広がる「アンチ既存システム」だけを訴えるポピュリズムの流れの中で、この価値観が時代遅れなものとなり、世界のガバナンスシステムが崩壊していくのを見過ごすわけにはいかない。

 単に、米国的価値観の崩壊を外部から見るだけでなく、そのどの部分はどう残し、新たな価値観として何を加えるのか。特に、個人の尊厳と機会の平等という建前の裏側で、大きな経済的不平等が拡がり、中流階級が崩れ去っていったここ数十年の現実。これをデジタル産業革命の中で、どう組み立て直していくのか。これらの問いは、われわれ日本人にも突き付けられた大きな宿題ではないだろうか。

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