故・ジョン・マケイン上院議員の机に供えられた白バラ(写真=ロイター/アフロ)
米国在住の友人の勧めで、2018年9月1日に行われたジョン・マケイン上院議員の葬儀でのいくつかの弔辞をビデオで視聴、そして、その全文を読む機会を得た。長期にわたり、闘病生活を送っていた共和党の重鎮マケイン氏は、今年春に、バラク・オバマ、ジョージ・W・ブッシュの両元大統領に、自分の葬儀で弔辞を読むことを頼んでいたという。
ちなみに、オバマ氏は2008年の大統領選で、ブッシュ氏は2000年の共和党大統領候補予備選で、それぞれマケイン氏を破った人たちなので、もっとも強力な政敵二人に弔辞を頼んだということになる。特に、オバマ氏とは所属政党も思想信条もまったく異なるわけで、オバマ前大統領自身、依頼されたときは驚いたと述べている。
このオバマ氏の弔辞が、実に素晴らしい。非常に人間的であると同時に、マケイン氏、そしてオバマ氏自身が体現する「米国の良い部分とそのリーダーに求められる品格」を、しみじみと感じさせるものだ。
オバマ氏とブッシュ氏に弔辞を頼んだマケイン氏
たとえば、まず自分とブッシュ元大統領に弔辞を頼むこと自体が、マケイン氏のユーモアのセンス、ちょっといたずら好きの性格、さらには過去の違いを乗り越えて共通の土俵を探し求める、という価値観を示していると述べる。そのあとで、米国の価値観とは何か、が格調高い英語で続く。
“… while John and I disagreed on all kinds of foreign-policy issues, we stood together on America’s role as the one indispensable nation, believing that with great power and great belessings comes great responsibilities…
…our security and our influence was won not just by our military might, not just by our wealth, not just by our ability to bend others to our will, but from our capacity to inspire others with our adherence to a set of universal values, like rule of law and human rights, and an insistence of the God-given dignity of every human being.“
[私訳:ジョンと私は、あらゆる種類の外交問題で意見を異にしていたが、米国の果たすべき役割についての考え方は一致していた。米国は、世界になくてはならない国であり、大きな力と恵まれた地位にあることには、必ず大きな責任が伴うことを(二人とも)信じていたからだ。
米国の安全が保障されること、米国が世界に影響力を持つことは、単に我々が強大な軍事力をもつから、あるいは、豊かな富をもつからではない。他者を我々の意思に添うようにさせる能力があるからだけではない。我々が、法の支配、人権の尊重といった一群の普遍的な価値観に従い続けることで、他者を鼓舞する力を持つからこそだ。人類の一人ひとりが、神から与えられた尊厳を有するということに、我々がこだわりつづけるからこそだ。]
ここでオバマ氏によって表現されているのは、米国の伝統的な価値観への揺るぎない信頼であり、また政敵同士でも、共通の価値観の上にたつことについては、相互に信頼しあっているということだ。全米にライブ中継される葬儀での弔辞であるからには、これは米国国民の多くに通じる共通感覚であるというのが大前提なのだろう。
一方、この葬儀に故人の遺志で招待されなかったと伝えられるトランプ大統領、そしてその支持者たちは、どう考えてもこういった価値観を共有しているとは思えない。
また、トランプ氏の言動からは、政敵と相互信頼関係に立つことが良いことだという思考は、彼の信条とまったく相いれないように見受けられる。
彼の支持者たちにとっては、「美しい伝統的な米国的価値観」は限られたエリートたちのもので、くそくらえ。自分たちの不満や苦しみを和らげてくれる可能性があるならば、そんなエスタブリッシュメントの価値観をぶちこわす言動を繰り返す、トランプ氏こそが希望の星だ、ということになる。
この極端な違いをどう受け止めるべきなのだろうか。よく言われるように、トランプのアメリカとそれ以外のアメリカ、2つの別の国が、米国の中にあるとしか思えない。
もちろん、米国の「価値観」の中には、無意識のうちに、他の文化体系や価値観を見下すような部分が含まれている。また、従来から米国の国益のためには「タテマエ」ではなく「本音」に従い、随分身勝手な行動をしてきた例も多々ある。中東で反米政権に対抗する反政府勢力に援助をつづけてきたことは、その一例だ(ちなみに、その一部は、後に反米テロリスト組織へと変貌した)。
ただ、この建前としての価値観は、欧州や日本を含め、多くの国や地域でそれなりの普遍性をもって受け止められ、民主主義と自由貿易というグローバルルールの根幹となってきた。これは米国の軍事力とも組み合わさって、世界のガバナンスシステムも形作ってきた。
最近、『武士の日本史』(高橋昌明著、岩波新書)という大変面白い本を読んだのだが、その中に、中世の典型的な合戦の様子が出てくる。
かえりみられなくなったいくさ始めの作法
両軍は、自軍の前に楯を並べ立て、約55メートルから109メートルの距離を隔てて対峙する。鬨の声を三度あげてから、いくさ始めの作法として音を発する鏑矢をそれぞれの陣営の騎馬武者が射て、弓矢による戦闘が始まる、のだそうだ。
これは、ある形式化されたルールの下で戦闘行為を行うという共通理解があってこそ成り立つことだろう。時を経て、戦国時代になり、銃や槍が兵器の中心になってからは、当然このような「約束事」は時代遅れなものとして、かえりみられなくなったようだ。
オバマ氏やマケイン氏、あるいはここでは触れなかったがブッシュ氏にも共通する「価値観」と政治論争上の「約束事」。これが、中世の戦の「作法」と同様、時代遅れなものとなっていくのかどうか。今はその重要な分岐点にあるのだと思う。
内向きの米国政治、あるいは世界のあちこちに広がる「アンチ既存システム」だけを訴えるポピュリズムの流れの中で、この価値観が時代遅れなものとなり、世界のガバナンスシステムが崩壊していくのを見過ごすわけにはいかない。
単に、米国的価値観の崩壊を外部から見るだけでなく、そのどの部分はどう残し、新たな価値観として何を加えるのか。特に、個人の尊厳と機会の平等という建前の裏側で、大きな経済的不平等が拡がり、中流階級が崩れ去っていったここ数十年の現実。これをデジタル産業革命の中で、どう組み立て直していくのか。これらの問いは、われわれ日本人にも突き付けられた大きな宿題ではないだろうか。
2018年9月1日、マケイン米上院議員の葬儀で弔辞を読む娘のメーガン・マケインさん(写真=AP/アフロ)
さて、マケイン上院議員が事前に弔辞を頼んだ相手が、もう一人いる。彼の娘であるメーガン・マケインさんだ。彼女の弔辞は、韻の使い方や語句の繰り返しなど、質の高い美しい英語の見本のような文章であり、またそれが故人の娘としてのあふれる思いと相まって、実に心を動かす素晴らしいものだった。
ご興味がある方は、ネット上で容易に探せるので、ぜひご覧になることをお勧めしたい(特に、最初から12分強を経過したあたりから)。少しだけ、引用してみよう。
「ジョン・マケインのアメリカはずっと偉大である」
“The America of John McCain is generous and welcoming and bold. She is resourceful and confident and secure. She meets her responsibilities, she speaks quietly because she is strong. America does not boast because she has no need to.
The America of John McCain has no need to be made great again because America was always great.“
[私訳:ジョン・マケインのアメリカは、(周囲に対して)寛大であり、友好的であり、そしてまた大胆に挑戦もする存在です。臨機応変で、自信に満ち、どっしりと構えています。自らの責任を果たし、その強さゆえに、静かに語ります。アメリカは自慢げに語ったりはしません。そんなことをする必要がないゆえに。ジョン・マケインのアメリカは、「もう一度偉大になる」必要などありません。なぜなら、アメリカはずっと偉大であるから]
最後の部分は、言うまでもなく、トランプ大統領を名指しにはしないものの、彼に対する強烈な皮肉になっている。この部分では、弔辞であるにもかかわらず、聴衆から拍手がわき、それが長く続いた。
ライバル2人に加えて、最愛の娘に自分の弔辞を頼み「私はどうすればいいの」と聞いた娘に対し、「おまえが、いかに勇気があるかを聴衆に見せてやればよいんだ」と答えたというマケイン氏。ごくごく個人的には、自分の娘にこのような弔辞を読んでもらえるということが、本当に素晴らしいと思うし、ちょっぴり羨ましい。
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