朝鮮における戦争に巻き込まれた理由

 たとえば、4世紀後半からの高句麗好太王との戦い。当時南下しようとしていた高句麗に対し、半島東南側の新羅は屈服し、服属せざるを得ない状況に陥った。一方、百済は日本と結ぶことによって、その圧力に抵抗しようとし、日本に複数回外交使節を送っている。

 倉本先生の論考によれば、日本(当時の倭国)は、西暦391年以降、百済の要請を受けて、軍を送り、百済軍と共同で新羅に侵攻。その後、400年、404年に好太王傘下の騎兵を主力とする高句麗軍に大敗を喫した。ストレートに言えば、百済の求めに応じる形で、朝鮮における戦争に引きずり込まれたことになる。

 その後、日本は5世紀を通じて複数回、当時の中国(魏晋南北朝時代の宋)に遣使し、朝鮮半島における軍事指揮権を求めている。これも、日中朝間の関係性の中で、高句麗を敵視しつつ、中国の力を利用しようとしたものだろう。

高句麗の第19代王である好太王(374~412年)の業績を称えた石碑。現在の中国・吉林省集安市の好太王陵近くにある(高句麗は、現在の中国東北部の南部から朝鮮半島北中部に位置していた)。碑文には414年に建てたと書かれている。(写真:安部光雄/アフロ)

国際情勢を十分把握しないまま、覇権争いに参画

 7世紀半ばには、隋に続いて中国の統一王朝となった唐が、高句麗を攻め始めた。一方、百済は新羅に攻め込み、新羅は唐に援兵を求めた。最終的に、唐・新羅連合が、百済と高句麗を滅ぼし、中国に冊封された新羅が朝鮮半島の統一を果たすことになるわけだが、この時、日本は、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済の残党からの依頼に応じ、百済再興を掲げて、大軍を送ることとなった。

 再び、中国を交えた朝鮮半島での覇権争いに参画したのだ。この結果はご存じのとおりで、白村江の戦いで、日本・百済連合は壊滅的な大敗を喫することとなる。

 倉本先生を始め、歴史家の方々の研究によれば、これらの戦争に際し、日本は国際情勢とその変化を十分に把握していなかったとされる。中国、そして朝鮮半島の複数の勢力。彼らの間で何が起こり、どういう力関係の変化があったのか。各プレイヤーは、何を目的として、誰とどう組もうとしているのか。さらには、新しい軍事技術やその優劣はどうか。

 こういったリアリティの把握不足が、戦争に入るまでも、入った後も続いていたようだ。この「癖」から、どう脱却するかが、現在も問われている。