何を変革すべきかより、どう変革すべきかだ
「地元愛」「経済成長への疑義」「相対的貧困」がかぎ
御立 尚資
ボストンコンサルティンググループ(BCG)シニアアドバイザー
前回、トランプ大統領が巧みに活用した「人々の思い・エトス」について述べ、その上で日本でポジティブな変革を起こしていくには、どのような「思い・エトス」に向き合っていくべきか、という頭出しをさせていただいた。
「日本のここがいけない」「こう変えるべきだ」という「what」の議論は、そこここに溢れており、論点自体はほぼ出そろっていると思える。それに比して、「how」すなわち「どう変えるのか」「どう変革する力を生みだしていくのか」という議論は少ない。
「how」論を進めていくには、その中核に、現在の日本の中に生まれてきている「思い・エトス」を位置づけ、それをポジティブな方向に活用する知恵があるべきではないか。これがこの話のスタートポイントであった。
今回はその具体論を粗い初期仮説としてご提示し、今後の議論に繋げていくという内容になる。
さて「点」として日本国内のあちこちにあるが、「線」や「面」にはなっていない「思い・エトス」。これらをつなぎ、何らかの大きなうねりをつくることで、ポジティブな変革の原動力が生まれ得る。
地元に残った人たちの思い
この「点」としての「思い・エトス」を現段階で私なりに言語化してみると、「地元愛」「従来型経済成長への疑義」「相対的貧困への怒りと将来不安」の3点になる。
まずは、「地元愛」。大都市への人の流入と東京一極集中という流れの反作用として生まれてきた思いが、いくつかのきっかけでより強くはっきりしたものになってきたのが、「地元愛」という言葉で表される「思い・エトス」だ。
1955年時点では、東名阪の3大都市圏に居住する人たちは人口の37.2%だったが、その後増え続け、2015年には51.8%に達している(総務省統計局「住民基本台帳人口移動報告」)。この都市移住、特に東京圏一極集中の流れの中で、逆に地方にとどまった人たちには、地域・地元を大事にするという思いが出てきた。
これをキャッチ―な形で取り上げたのが、2014年ごろに流行したマイルドヤンキー論であったろう。地元を大事にしつつ、狭い行動範囲と交友関係の中で生きる地方の若者像を、おもしろおかしく抽出したものだが、もっと落ち着いた意味で、「自分たちの地域を大事にしよう」という現実の動きが様々な地域で出てきたことを踏まえていたのだと思う。
個人的には、その流れが、2011年の東日本大震災、そして「消滅可能性都市」論によって強く、はっきりしたものになってきたと感じている。
国土交通省によれば、日本の国土面積は世界の0.25%だが、マグニチュード6以上の地震発生回数は世界の22.9%だという。この地震慣れした日本人にも、東日本大震災(と福島原発事故)は、大きな心理的ショックをもたらした。その副産物のひとつとして出てきたのが、自分の周囲そして地域での共助意識と地元愛の高まりだったと思う。
一方、2010年の藻谷浩介氏の「デフレの正体」を嚆矢として人口問題への関心が広範囲で高まっていたところに、増田寛也氏が座長を務めた日本創成会議が2014年に「消滅可能性自治体」の具体名を公表した。これもまた、数多くの地域住民と自治体・政府関係者にショックを与え、「何か手を打たなければ」という心理的な「力」を高めることとなった。
逆説的だが、震災による被害、そして、自分の住む地域が(少なくとも自治体という組織としては)消滅するかもしれないという驚愕が、地元社会をなんとかしなければ、という「思い・エトス」を強めることに繋がったのではなかろうか。実際に、全国あちこちに足を運んで、地域おこしの話をうかがうと、ここ数年、明らかにそれを進めていく熱意と具体的な行動のレベルが高まった地域が増えているように感じられる。
特に、最近強く感じるのは、「中央主導の政策を待っていても無駄。自分たちが地元で動いていかなければ、変化は起こらない」という感覚の高まりだ。この「思い・エトス」は、何らかの形でポジティブな変革への梃子たり得るのではないかと思う。
二つ目に、「従来型経済成長への疑義」。地域にある自然環境を活かす気持ち、あるいは循環型経済への志向という点で、「地元愛」とも重なるのだが、地方のみならず、大都市生活者の間でも、「従来型の経済成長は何か違うのではないか」という違和感が強まっているように見受けられる。
第3次産業革命を受け、20世紀の大部分は、日本を含むほとんどの先進国で、「工業生産重視」「(土木、建設を伴う)開発型」の経済運営がGDPを増やし、人々に豊かさをもたらしてきた。この中で、政治と分配のシステムが機能不全を起こしたことが、三つ目の「相対的貧困への怒りと将来不安」に繋がったことは言うまでもない。
しかし、それ以外にも、従来型の経済成長は、気候変動を中心としたサステナビリティへの懸念を人々の心にもたらした。行きすぎた開発と工業化が、地域の景観を壊し、さらには自然環境の破壊に繋がったことに対し、20世紀半ばには公害反対という目に見える形での運動が起こったが、21世紀になってからは「静かな反抗」として、地域での景観回復、あるいは(棚田、里山などの人の手が入った上での)自然との調和の仕組みを再構築しようという動きが、あちらこちらで出てきている(あえて言えば、ここへ来て、異常熱波、ゲリラ豪雨や超大型台風などが続き「このままではまずい」という思いが強まりつつあるようにも思える)。
さらに、日本においては、工業化社会を作る上でたいへん役立ってきた「(アウトライヤーを作らない)画一的な教育システム」「(自らの思いや個性を犠牲にしてでも)集団としてアウトプットを出すことが良しとされる社会通念や働き方」。これらに対して、「これは何か違うのではないか」という思いを持つ層が広がってきた。
これまでの社会経済システムやそれが持つ無言の圧力に対して、「個々人がそれぞれの個性と自らの選択に応じて多様な生き方をすること。そしてそれが心の豊かさや幸せに繋がる」という反発が生まれてきた、と解釈してもよいだろう。
一足飛びに、「だから教育を手直ししよう」とか「働き方改革だ」とwhatに行くのではなく、この「違和感」や「反発心」をきちんと理解し、それらが持つパワーをどう全体としての改革に繋げるか。それが大事なのではないだろうか。
最後に、「相対的貧困への怒りと将来不安」。受けとめたくない事実だが、バブル崩壊以降、日本人の多くは貧しくなった。国民生活基礎調査によれば、1994年時点での日本の世帯年収は、平均で664万円であった。これが2016年には、560万円と約100万円下がっている。平均ではなく、世帯数での中央値だと、442万円とさらに低い収入だ。
欧米と同様に、中間層の雇用の一部が新興国に移転しただけでなく、この十数年でいわゆる非正規労働が雇用の3分の1を占めるレベルまで急増したこともその要因だ。ビジネスの側にいる人間としては、忸怩たる思いだが、個々の企業の行動は様々でも、総体としては、この間、労働分配率は大きく低下している。
自らの意思で、正規雇用を選ばず、フレキシブルな働き方をしたいという人たちが存在することは事実だが、世帯年収の低さ故に、長時間の労働に追われ、社会からの疎外感がある層が増加していることも、また事実だろう。
子供の7人に1人は相対的貧困層の日本
世帯の平均所得の半分以下(正確には、世帯可処分所得の中央値の半分に満たない)層は相対的貧困層とされる。日本におけるこの層の割合は、16.1%(2012年)に達し、OECD(経済協力開発機構)加盟国の平均11.5%を大きく上回る。この数字は、G7各国の中で2番目に高い相対的貧困率でもある(1位は米国)。
広く知られているように、子供の7人に1人は相対的貧困層であり、一見普通に学校に通っていても、修学旅行に行けない、3食きちんと食事ができない、という問題を抱えていることが多い。昨今、メディアを賑わす子供の虐待やネグレクトなど、様々な社会問題も、貧困問題が原因の一部となっている例も多いと推定される。
超富裕層、超高所得層が米国などよりも少ないことから、格差が少ない国と認識されている我が国であっても、今では格差がもたらす貧困問題を抱えていると言わざるを得ないのだ。政府の調査でも、自分の生活が苦しい、と答えた人は55%いる。その全てではなくとも、かなり広範囲にわたって、貧しさゆえの今の社会システムに対する怒り、という「思い・エトス」は蓄積されていると言ってもよいだろう。
このような方々だけではなく、年金・医療・介護といった社会保障の持続性、あるいはもっと広く人口減・高齢化の進むこの国での、自分自身の将来に対して不安を持つ人はさらに多いだろう。ここでも、変革の梃子となり得る心理的パワーはマグマのように溜まっている。
さて、この「地元愛」「従来型経済成長への疑義」「相対的貧困への怒りと将来不安」といった「思い・エトス」。前述したように、これらの背景となる課題に対して何をなすべきか、というwhat論(これはこれで大事だが…)にとどまらず、この「思い・エトス」を何らかの軸に結集し、これまで数多のwhat論の実行を阻んできた「慣性」や「変化への抵抗」を打ち破るhow論が必要だ。
幕末・維新期の場合、当初の攘夷論、途中からの開国・富国強兵論に当たるのが、いま新しく作り上げるべき「何らかの軸」であり、維新遂行に導いた下級武士を中心とした「門閥制度への不満」が、今回述べてきた3つの「思い・エトス」に当たる。
これを総合したhow論について、いくつもの案、そしてそれを引っ張る具体的な運動が競いあう状況になってこそ、平成から次の元号に至る時期の変革が始まるのだと思う。
地域経営の自由化運動
さて、あくまで、叩き台の一つだが、そのhow論の軸として、「地域経営の自由化運動」という考え方はあるのではなかろうかと考えている。「外交・安全保障」を主業とする中央政府と、「地域ごとの産業政策、豊かさの作り方戦略」を立案・実行し、その実行のために相当程度の税制の自由度を有する地域政府。この状態に向けて、今の制度をゼロベースで作り変える。
「地元愛」をベースにし、従来の中央主導の政策立案・実行のあり方に対して異議を唱える。そして、地域と個々人の豊かさを再構築するという旗印で、地に足のついた行動を通じて、「新しい経済のあり方」を走りながら作り上げていく。見方によっては、地方の反乱かもしれないが、こういった総合的な運動を進めていく、というやり方だ。
乱暴な意見であることを承知で、将来不安を減らし、多様な生き方を許容しながら国として活力を持ち続けるために、スタートポイントを提示してみた。さて、皆さんはどうお考えだろうか。
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