毎日、駅に向かう途中に通る郵便ポストの上に、だれかの忘れ物だろうか、クマのぬいぐるみが乗っている。毎日毎日、何千人、累計すれば何万人もの人がそこを通り、その多くは「何か変だな」という違和感を感じつつも、ただ通りすぎていく。そのぬいぐるみを手にとって取り上げ、「みなさん、これ、何か変ですよね」とはっきり口に出していう。それが、ヒットの共通項だというのだ。

 多くの人が感じている、言葉にならない感覚。これを見つけ出し、取り上げて、明確に表現することで、「ああ、そうだよ、そうなんだ」という共感や支持する気持ちの大波を作り出す。高橋源一郎さんのお話では「無意識の産物」だったところを、意識して行うことが、ヒットを生み出し続ける所以なのだろう。

 さて、前回のこのコラムでは、政治の世界のポピュリズムの大波について取り上げ、イアン・ブレマーの新著“US VS THEM”(邦訳『対立の世紀』、日本経済新聞出版社、6月14日発売予定)を読んで考えたことを書かせていただいた。これとも関連づけて考えると、川村元気さんの「大衆の無意識の拾い上げ、言語化」は大ヒットにつながるわけで、言い換えれば一種の「良いポピュリズム」だ。

 一方で、戦時中の大観の行動は、「悪いポピュリズム」ととらえられ、昨今のいくつもの国のポピュリズムと同様に批判される対象となった。

 この「良いポピュリズム」と「悪いポピュリズム」の違いが気になって、ここのところ、思いを巡らせている。

 単純化してしまえば、「良いポピュリズム」たる大衆の無意識を拾い上げて作られる大ヒットは、また次の別のヒットに置き換えられてしまう。ある意味、脆弱で、異なったものの見方を排除したり抑圧したりしないわけで、「寛容で、弱いポピュリズム」と言ってもよいだろう(もちろん、大抵の場合は政治的色彩を持たないので、そういうことになる)。

 一方、戦争協力の意味を持つ芸術作品は、元々の意図にかかわらず、政治的な意味を持ち、政治に利用されることとなりがちだ。そして、多くの場合、政治そのもののポピュリズムと同様、いつの間にか、「俺たち」対「あいつら」という線引きにつながり、敵と位置付けられた「あいつら」に対して、抑圧的な行動につながっていく。「非寛容で、強いポピュリズム」である。

 この場合、後から振り返って批判する(例えば、第二次大戦時の戦争協力や大政翼賛会支持者への批判)側、あるいは、同時代であっても少し離れた立場で批判する側は、往々にして、「衆愚政治をもたらした有権者、一般大衆の無知」というスタンスをとる。知識・教養が不足している層を、「正しい方向に」教育するなりしなければ、衆愚政治が避けられない、という論だてである。

 しかしながら、今世界各地で起こっていることをみると、この「悪いポピュリズム」批判の常道たる「衆愚批判」自体が、世界的な非寛容ポピュリズムの広がりに繋がっていると思えてならない。トランプ支持者でもBREXIT支持者でもよいが、彼ら・彼女らにとっては、既存エスタブリッシュメント層が「上から目線」で「あいつらはわかっていない、無知だ、教養がない」と自分たちを疎外すること自体が、もっとも許せないことだ。

 エスタブリッシュメント層だけが経済成長の恩恵や減税などの政策メリットを享受している、という不公平感がある中で、既得権構造をぶち壊すにはなんらかの政治的反乱を起こすしかない、という思いに駆られている。そういうところに、「上から目線」で自分たちのことを切って捨てられたのではたまらない。