
今年は横山大観の生誕150年。このため、大きな展覧会やメディアでの特集が相次いでいる。大観は、明治元年に生まれ、文明開化、西洋文化の急激な流入という大きな流れの中で、師である岡倉天心、橋本雅邦や、東京美術学校の同期である菱田春草らとともに、「日本画」というジャンルを作り上げた一人だ(ちなみに、日本画とは明治以降、洋画との対比で生まれてきたジャンルである。それまでの、屏風、掛け軸等の伝統的絵画は、なんらかの実用に供される匠の技の所産であり、例えば「南蛮屏風」というジャンルはあっても、「日本」画と呼ばれるものは存在しなかった)。
近代日本画が大好きで勝手に応援団を自任しているので、こういった展覧会や記事・番組を嬉々として追いかけているが、中でも東京北の丸の国立近代美術館で5月27日まで開催されている「生誕150年 横山大観展」は見ごたえがあった(6月以降、京都国立近代美術館に巡回予定)。
大観の画業を時系列でカバーしており、40メートルを超える日本一の長さの絵巻、「生々流転」(水墨画、重要文化財)、あるいは数多く描いた富士山のうち、大正期の名作「群青富士」など、見どころが満載だ。個人的には、朦朧体と呼ばれた(それまでの伝統絵画に特徴的な輪郭線を書かない)明治期から大正初期の作品がもともと好きで、今回も堪能させてもらった。
さて、早世した盟友、春草と違い、昭和33年に89歳で没するまで明治・大正・昭和の全てを生きた大観には、戦時中の戦争協力に対する批判が根強くある。昭和15年には、軍に寄附をする目的で絵画シリーズを描き、その収益で爆撃機、戦闘機計4機を日本軍に献上、それらの飛行機は全て大観号と名付けられた。
ヒットの秘訣は「ポストの上のクマ」
最近、放映されたNHK 日曜美術館の大観特集の中で、作家の高橋源一郎さんが、この点に関して、「大観は国民大衆が共通してもつ『無意識』に感応し、それを描きだす中で、戦争協力的な姿勢が強まっていった」という意味のことをおっしゃっていた。
昭和の軍国主義の時代を、エスタブリッシュされた画家として生きた大観だが、最初のうちは、国民の中にある「国粋的な気分」を感じ取り、おそらく無意識のうちに、それを具体的な絵画として描いたのだろう、ということだ。確かに、高い評価を受ける芸術家は、その繊細な感覚を通じて、(肯定的に受け取るか、否定的に受け取るかは別として)時代精神のようなものを、それが明確な形を取る前に感じ取り、作品として表現する、あるいは、してしまうところがあるのかもしれない。
この話を聞いて思い出したのが、平成の大ヒットメーカー川村元気さんがおっしゃっていたことだ。『電車男』、『君の名は。』、『おおかみこどもの雨と雪』、『億男』など次々とヒットを飛ばす川村さんは、希代のプロデューサーであり、クリエイターだ。お目にかかって話すたびに感心することが多いのだが、彼がヒットの秘訣としてたとえ話をしてくれたのが、「ポストの上のクマ」の話である。
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