言語化した「ストーリー」にし価値基準を作ることが重要

 現代アーチストのサポートをしておられる方は、第二、第三の村上隆を生み出せるよう、アーチストの人たちがみずからの作品の「ストーリー」を語る力を身につけることが大事だと考え、その支援をなさっている。これはこれで大事なのだが、本当は、古代から現代に至るまで、さまざまなジャンルで、日本文化をきちんと言語化した「ストーリー」にし、価値基準の「ものさし」を作る、ということが、より重要だと思う。

 たとえば、昨今の若冲ブーム。プライス氏という稀有な米国人コレクターが、そのきっかけの重要な部分を担ってくれたのは事実だ。

 しかし、美術評論家であり元東大教授である辻惟雄さんが『奇想の系譜』とそれに関連する仕事をされたことで、若冲が歴史的な流れに位置づけられ、その「ストーリー」がより深みを増したことがなければ、ここまで海外での本格的評価を得ることはできなかったかもしれない。

東大教授・辻惟雄氏の仕事が、「ものさし」作りに寄与した

 従来のわびさび的な日本美術のイメージを裏切る、奇想天外といってもよいようダイナミックな美術の一群。具体的には、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、歌川国芳、などなど。これらを「奇想」というコンセプトで大きくとらえるという辻先生の仕事が、価値基準の「ものさし」を作るのに大いに役立ったのだ。

(ちなみに、以前この連載の記事[2017年10月30日配信「『縄文VS.弥生』から考える変革へのヒント」参照]で触れた谷川徹三さんの『縄文的原型と弥生的原型』が出版されたのが1971年。辻惟雄さんの『奇想の系譜』の最初の版が1970年。高度成長期に、実に大きな視座と長い時間軸で日本文化をとらえる書籍が続けて出されたのは興味深い。)

 運慶を日本文化の大きな流れの中で、どう位置付けるか。さらには、海外の芸術の流れと相対化して、どうとらえるのか。これを語れる高度な「批評家」と「批評文化」があってこそ、日本文化ビジネスを大きなものとし続けることができるのではなかろうか。

伝統文化からクールジャパンに至るまでを俯瞰した「ストーリー」を

 日本で、日本文化の「ものさし」というと、すぐに「政府による海外の日本食料理店の正当性のお墨付き」といった話になる。申し訳ないが、JIS規格と同様に、これはあるスタンダード以下のものを排除するには良いが、ほんとに質の高いものに、それがあるべき値段をつけるためには役に立たない。

 高いレベルの批評にもとづく「ものさし」、あるいは「ストーリー」作りが大事なのだ。これに需給をマッチングさせる仕組みができて、はじめて値段が決まっていく。

 好き嫌いはあれど、良くも悪くも、フランス料理におけるミシュラン、新世界(とボルドー)ワインにおけるロバート・パーカー。これらが文化的商品・サービスのビジネス化に与えた影響は、巨大だ。彼らの「ものさし」に、希少性等の需給状況があいまって、トップクラスのレストランやワインの高額かつ大きな市場ができあがっていったのだから。

 日本文化のビジネス化に、「ものさし」を作っていく上で、ミシュランのような点数制度を作れ、と言っているのではない。あくまで、きちんとしたアカデミズムに基づく批評性をバックに、伝統文化からクールジャパンに至るまでを俯瞰した「ものさし」作りを始めるべきだという考えである。

 次回は、ストックを活かす、という点について、述べてみたい。

次回に続く)