世界最大の美術フェア「ART BASEL(アート・バーゼル)」の展示の一部(2015年6月)。(写真:ロイター/アフロ)
世界の美術市場の中に占める割合、日本市場は1%未満
日本の文化ビジネス市場は、圧倒的に規模が小さい。
ART BASEL(アート・バーゼル、世界最大級のアートフェアの一つ)とUBSの推計によると、世界の美術市場規模は約6兆3000億円(2016年ベース)に達する。推計手法が少し異なるが、欧州美術財団(TEFAF)の分析では、そのうち、米国が38.8%、中国が22.4%を占めているという。
では、日本市場は世界の中でどれくらいのシェアを持っているのか。これがなんと、0.7%に過ぎないという。世界第3位の経済規模を有する日本は、米国に次いで、世界第2位の個人金融資産保有国でもある。また、東京証券取引所の時価総額は、NYSE(ニューヨーク証券取引所)、ナスダックに次いで世界第3位だ。これらを考えると、正直信じ難い小ささだ。
世界のコンテンツ市場の中でも、わずか2.5%
クールジャパンに代表されるコンテンツ市場ではどうだろうか。こちらも、経済産業省の資料によれば、2014年ベースで、世界のコンテンツ市場約68兆円の中で、日本由来のコンテンツは、わずか2.5%とのこと。様々な政策サポートもあって、少しずつ日本発コンテンツのマーケティングは進んできたが、まだまだこんなレベルにとどまっている。
自国の文化は、何よりも国民の心を豊かにしてくれる。さらに、誇りの源であり、外交・安全保障上のソフトパワーにもつながる。
金額的な規模の大きさが、こういったメリットの大きさと完全に相関するわけではなかろう。しかし、国内の文化市場の規模、あるいは自国文化の輸出規模がないと、作り手・担い手にお金が回っていかず、自国文化を継続的に発展させるエコシステムが崩れていってしまう。さらに言えば、文化ビジネスはサービス産業の重要な一部として、直接・間接に雇用・賃金・税を生み出し得る。
多くの人や企業が参画していく余地のある面白い分野
こう考えると、文化ビジネス、特に広い意味での日本文化のビジネス化は、もっと多くの人や企業が参画していく余地のある面白い分野なのではないかと思う。
さて、日本文化をビジネス化する上で、なにが大事か。現段階では、3つのポイントがあるように感じている。ストーリー、ものさし、そして、ストックを動かすこと、だ。
村上隆さんというアーチストをご存じだろう。グローバル市場で、最高級の評価を受ける数少ない日本人アーチストだ。2008年に、彼の「マイロンサムカウボーイ」という立体作品が、サザビーズのオークションで約16億円で落札されたことは、大きなニュースになった。
彼がこれだけの評価を得られるようになった背景のひとつが、自ら作り上げた「ストーリー」だ。絵巻物から漫画、さらには自らの作品に至るまで、日本美術の大きな流れとして、平面的、2次元的であり、遠近法もあまり使わない特徴がある、と指摘。これを「スーパーフラット(SUPERFLAT)」と命名したのだ。コンセプトを作り、それをストーリー化した、と言ってもよいだろう。2000年にPARCOでSUPERFLAT展という展覧会が行われ、翌年にはそれが、ロサンゼルス、ミネアポリス、シアトルと巡回。
村上隆さんの作品が約16億円で落札された理由
村上作品が世界的な評価を受けるようになったのは、この「過去からの日本美術の流れ(のひとつの特徴)にのっとったコンテンポラリーアート作品」というストーリー、そしてそれを目に見える形にした展覧会が、大きな役割を果たしたと言われている。海外でも通用する「ストーリー」を構築し、日本文化を世界に理解させる。これを自ら行った、かなりレアなケースだ。
実は、同じ2008年に、別のオークションで鎌倉時代の運慶の作とされる大日如来像が落札されたが、その価格は14億円。ある専門家の方のお話では、世界的にこれほどの希少性と歴史ある作品が、現代アーチストの作品より安く売買される、というのはまったく考えられない、という。これは、村上作品が高すぎるのではなく、歴史的な作品が世界に知られておらず、値づけの「ものさし」がきちんと存在しないため、運慶が安すぎた、ということだ。
2010年、仏ヴェルサイユ宮殿で村上隆氏が作品展「MURAKAMI VERSAILLES」を開いた時に展示された作品の一つ。(写真:friday/123RF)
言語化した「ストーリー」にし価値基準を作ることが重要
現代アーチストのサポートをしておられる方は、第二、第三の村上隆を生み出せるよう、アーチストの人たちがみずからの作品の「ストーリー」を語る力を身につけることが大事だと考え、その支援をなさっている。これはこれで大事なのだが、本当は、古代から現代に至るまで、さまざまなジャンルで、日本文化をきちんと言語化した「ストーリー」にし、価値基準の「ものさし」を作る、ということが、より重要だと思う。
たとえば、昨今の若冲ブーム。プライス氏という稀有な米国人コレクターが、そのきっかけの重要な部分を担ってくれたのは事実だ。
しかし、美術評論家であり元東大教授である辻惟雄さんが『奇想の系譜』とそれに関連する仕事をされたことで、若冲が歴史的な流れに位置づけられ、その「ストーリー」がより深みを増したことがなければ、ここまで海外での本格的評価を得ることはできなかったかもしれない。
東大教授・辻惟雄氏の仕事が、「ものさし」作りに寄与した
従来のわびさび的な日本美術のイメージを裏切る、奇想天外といってもよいようダイナミックな美術の一群。具体的には、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、歌川国芳、などなど。これらを「奇想」というコンセプトで大きくとらえるという辻先生の仕事が、価値基準の「ものさし」を作るのに大いに役立ったのだ。
(ちなみに、以前この連載の記事[2017年10月30日配信「『縄文VS.弥生』から考える変革へのヒント」参照]で触れた谷川徹三さんの『縄文的原型と弥生的原型』が出版されたのが1971年。辻惟雄さんの『奇想の系譜』の最初の版が1970年。高度成長期に、実に大きな視座と長い時間軸で日本文化をとらえる書籍が続けて出されたのは興味深い。)
運慶を日本文化の大きな流れの中で、どう位置付けるか。さらには、海外の芸術の流れと相対化して、どうとらえるのか。これを語れる高度な「批評家」と「批評文化」があってこそ、日本文化ビジネスを大きなものとし続けることができるのではなかろうか。
伝統文化からクールジャパンに至るまでを俯瞰した「ストーリー」を
日本で、日本文化の「ものさし」というと、すぐに「政府による海外の日本食料理店の正当性のお墨付き」といった話になる。申し訳ないが、JIS規格と同様に、これはあるスタンダード以下のものを排除するには良いが、ほんとに質の高いものに、それがあるべき値段をつけるためには役に立たない。
高いレベルの批評にもとづく「ものさし」、あるいは「ストーリー」作りが大事なのだ。これに需給をマッチングさせる仕組みができて、はじめて値段が決まっていく。
好き嫌いはあれど、良くも悪くも、フランス料理におけるミシュラン、新世界(とボルドー)ワインにおけるロバート・パーカー。これらが文化的商品・サービスのビジネス化に与えた影響は、巨大だ。彼らの「ものさし」に、希少性等の需給状況があいまって、トップクラスのレストランやワインの高額かつ大きな市場ができあがっていったのだから。
日本文化のビジネス化に、「ものさし」を作っていく上で、ミシュランのような点数制度を作れ、と言っているのではない。あくまで、きちんとしたアカデミズムに基づく批評性をバックに、伝統文化からクールジャパンに至るまでを俯瞰した「ものさし」作りを始めるべきだという考えである。
次回は、ストックを活かす、という点について、述べてみたい。
(次回に続く)
Powered by リゾーム?