例えば……、

 いろいろな立場の人たちを対象にしたフォーカス・インタビュー、
 10年来続けている個人を対象にしたインタビュー、
 レギュラーでやっているテレビやラジオ番組のスタッフ・関係者・共演者、
 講演会やセミナーで接する人々、
 メディア関係ではない仕事関係の人たち、
 プライベートの会合、

 などなど、たくさんの人たちと時間と空間を共にするわけだが、最初はギスギスしていた人がだんだんと柔らかくなったり、対立する意見であっても言い合いではなく議論になったり、頑なに弱者を排除していた人が「そっか。そういうこともあるのか……」と異なる見解に理解を示したり。
 私もたくさんのことを学ばせていただけるし、自分の意見を深化させることができる。

 それは「言葉」だけのやり取りでは決して沸き立たない感情。
 いわゆる「共感」である。

――上と下が“つながる”にはその場の空気、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を共有できる“場”が必要不可欠。

 冒頭の会合で、“下”は「毎週月曜日に社員全員にメールする社長さん」「年頭に現場に出向いて講話する経営陣」を嘆いていたけど、おそらく“上”はそれでつながると思い込んだ。
 でも、“下”はつながらなかった。

 「見る(視覚)、聞く(聴覚)」だけでは、心は“つながった”と認識できない。
元気な会社のトップが歩き回り、昼食を共にし、社長室のバーで語りあったように、触れる(触覚)、匂う(臭覚)、味わう(味覚)が満たされて初めて心と心の距離感が縮まっていく。

――「役員エレベーターと不正発覚の不機嫌な関係」より抜粋

ヒトは類人猿の昔から…

 自分で書いたことだが、つながる、とは「共感」であり、「信頼」をつなぐことだと、いろんな人たちと対面し会話する中で確信した。

 そういえば、霊長類研究で知られる京都大学総長の山極壽一先生が、「人は類人猿の時代から、身体活動を通じて集団を作り生き延びてきた」と話されているのを、ある講演会で聞いたことがある。

 先生いわく、
 「人が信頼をつなぎ、安心を得るには“共に過ごすこと”が必要不可欠で、それができなくなったとき不安がたえまなく大きくなり続ける」。

 いつの時代も、相手と対面するのはめんどくささを伴う。
 そのめんどくささなしに“つながれる”ツール=SNS が出来、「共感」が生まれる機会が激減。

 対面していれば、そこでまた必然的にやり取りが生まれるけど、SNSの世界では断絶が可能だ。だが、共に過ごしていないので不安になる。その不安を払拭するために“正義”を振りかざすもの同志が結託する。

 いわば信頼欠如社会の不寛容の魔のスパイラル。
 「不寛容」は社会に宿るのであって、「個人」に宿っているわけではないことを身をもって痛感させられたのが、2017年だったのである。