いただいたコメントで気付きを得ることもあれば、「伝わらない人には伝わらないのだなぁ」と落胆することもある。脳内ライオンが「ウぉ~~!!!」と暴れることもあれば、脳内ウサギから「そりゃあそうだ。まだまだ未熟だし、どれだけ現場に足を運び、いろんな人たちの意見や話を聞いても…、すべてを把握することなんてムリだよ」と諭され、開き直ることもあった。

 一方で、人格攻撃をするコメントに対してコメントしてくださる方々に何度も救われ、「ちゃんと分かってくれる人はいる」と安堵してきました。中には「公開を望まない」としながら、応援のメッセージを下さる方たちもいました(この場合は編集者が送ってくれます)。ホントにうれしかったし、勇気をいただきました。

 この場を借りて、すべての方々にお礼を申し上げます。心から、ありがとうございました。

 ただし、今年は……、例年よりも……、目を背けたくなるコメントが多かったのも事実です。
 それは私に関するコメントというより、私が取り上げた事象に関するコメントで

 「なんでこんなに苛立っているのだろう?」
 「なんでこんなに安全地帯から石を投げるのだろう?」

 と、息苦しくなるものが確実に増えた。

 「恐い」と思ったし、
 「ここに書いてスッキリしてくれるなら、それでいい」とまで思うようになった。

なんでコイツだけが

 ひと言でいうと「不寛容」。
 人は誰しも過ちをおかすし、感情的になることもあれば、傲慢になったり、保身に走ることだってあるのに、それを決して許さないギスギスした社会。

 そうなのだ。たくさん読まれたコラムも、たくさんコメントがついたコラムも、「なんでコイツは許されるんだ」と、自分より優遇される人への不満、弱者や少数派への排除や断絶を感じさせる“正義”の主張が、「不寛容な社会」そのものだ、と感じた次第だ。

 奇しくも歴史学者の小熊英二先生が「論壇時評」(朝日新聞)で、内容は違うけど全く同じ“感覚”を吐露している。
 なるほどと溜飲を下げたのは、ジェームズ・パーマーの「劉暁波の苦難は自業自得? 反体制派が冷笑を浴びる国」(ニューズウィーク日本版7月19日号)を引用した一節。

 「不公正な世界を前にしたとき、人間は精神的な防衛機能として、世の中は公正だと思い込もうとする」。そして「他人の苦しみを正当化する理由を探し、自分は大丈夫だと根拠もなく安心したくなる」。つまり、現状を変えられない自分の無力を直視するより、今の秩序を公正なものと受け入れ、秩序に抗議する側を非難するのだ」(論壇時評より)

 不公正な世界――。

 私が「清廉潔白じゃないと今の社会は許してくれないのだなぁ」と感じた背景に存在する“正義”だ。
 が、ひとつだけ不思議なこともあった。

 自身のコメント欄やSNS、あるいはテレビなどの街頭インタビューなどで感じる「不寛容」さが、リアル世界の人たちと接していると和らぐ。
 みな優しいし、みな人を思いやる温かい気持ちをもっていて、異なる価値観や意見が雪解けする。