町を歩けばつえをつく高齢者、障害者の方に頻繁に出会う。
バリアフリーという言葉が一般化してから15年以上の歳月が経っているのに、昨年まで規制されていたとは……にわかに信じ難い。
議会とは「私たち」のことを議論し、決める場所なのに、いちばん「私たち」から遠い場所になってしまっているのかもしれない。
ともあれ、批判的な意見を述べる人たちの正義は、
- 「強行突破は逆効果」と“やり方”を問題にするタイプ
- 「神聖な議会の場、仕事の場に赤ちゃんを連れてくるのはおかしい」という“場”を問題にするタイプ
- 「赤ちゃんは泣くからうるさい、集中できない」といった“赤ちゃん”を問題にするタイプ
の3つに大まかに分類できる。
どれもこれも一見“常識的”で、「そうそう、そうだよね」とうなづきたくなるのだが、
- “前例や常識に囚われる人たちの壁”がどうやっても壊せないから、強行突破したのだろうし、
- “神聖な場”、“仕事の場”で、居眠りしてる議員さんは山ほどいるし、
- “赤ちゃんの泣き声”より、“下品なヤジ”の方がよほどうるさい。
要するに、「現状維持」の視点からちょっと離れれば、いかに上滑りな意見かがわかるはずだ。
しょせんは、「偏見のコレクション」
育児経験者のママタレントが舌鋒鋭く、
- 「授乳は逆セクハラ」だの
- 「仕事しながら赤ちゃんの面倒みれるほど育児は簡単じゃない」だの
- 「赤ちゃんがかわいそう」だの
批判し続けてたけど、だったら「テレビ会議」のように自宅から参加できるようにすればいい。
「赤ちゃんがかわいそう」という誰も批判できない美しい言葉が、悪戦苦闘する母親や父親を追いつめ、この美しい言葉が発せられた途端、問題の解決は遠のいていく。
「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う」とは、アインシュタインの言葉だが、“否定派”の常識って、いったいいつの常識なのか?
その“常識”を見つめ直す作業こそが、「働き方改革」なんじゃないのか?
真の働き方改革、一人ひとりが輝く社会というのは、それまで見過ごされていたこと、仕方がないとされていたことを「みんなの問題」として考え、解決しようと努力することだ。
隠伏されてきた悲鳴を掘り起こし、仕事がより効率的にできるように働き方やモノを変える。
「今まで当たり前」だったことを、「本当に当たり前なのか?」「本当に必要なのか?」と考えてみる。
その当たり前を壊すには、ときには強行突破も必要だ。
なんて言い方をすると「ルールを守らなくていいってことか!」と口を尖らせる人がいるけど、常識を変えるには、まず、後先考えず行動しちゃうしかない場合のほうが圧倒的に多いと私は考えている。
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