これまた個人的な話でもうしわけないのだが、かなり前に国連主催のイベントに呼ばれ、元国連事務次長だった明石康さんとご一緒させていただいたことがある。

 当時、私は大学院の博士課程を修了したばかり。元スッチーで、お天気ねーさんだったことを知った明石さんに、「知的な道草を食ってきたんだね。もっともっと道草を食いなさい」と言われ、その言葉にえらくホッとしたのを記憶している。

 「転職の女王ですね!」「今度は何にチャレンジするんですか?」といつも言われ、ときには「ずいぶん遠回りをしてますね」と皮肉られることもあった私にとって、明石さんの言葉は希望だった。
 「結果的にこうなっただけで……その都度、一所懸命やってきただけなんだけど」 と居心地の悪さを感じていた私は、「ああ、今まで通り生きればいいんだ」と勇気づけられたのである。

日常生活ではあそびがどんどんと淘汰されている

 人間には、要領よく短い時間で力を発揮できる人と、寄り道をしながら長い時間をかけて開花する力を持っている人がいる。同じ人間の中にも、前者と後者が入り混じっている。

 功利的な社会とは、後者の力をとりこぼしていく社会。道草という、いわば遊びの中で、自分でも気づかなかった力が発揮できるように思う。

 「人生にあそびは大切だよね」という言葉を私はこれまで幾度となく、聞いてきた。
 「新しいことって、あれこれ遊んでいるうちに生まれるんですよ」といった経験談も、技術系の仕事についている何人もの人たちから聞かされてきた。

 ここで使われる「あそび」とは、「レジャー」という意味合いではない。きっちりと接続されていない隙間や空間があるということだったり、決められた仕事ではない自発的にやってることだったり、「気持ちや時間の余裕」や「間」という意味で使われている。

 が、日常生活では、なぜかきっちりと、隙間なくつながっていることが好まれ、あそび、がどんどんと淘汰されている。

 学生たちに「楽しいとか、やりたいとか思ったら、誰からなんといわれようととことんやりなさい」と言うと、「ホントにいいんですか?」と答える。

 「いいに決まってるじゃない」と返すと、
 「でも、親にそれって就職にプラスになるの? って聞かれちゃうし……」
と戸惑う表情を浮かべる始末だ。

 いったいなぜ、これほどまでに「功利的である」ことが求められ、評価される世の中になってしまったのだろう。そして、おそらく、あそび、を許容できない社会が、功利的な生き方が苦手な人たちに鈍い絶望感を抱かせているように思えてならないのである。

 人間はホモ・サピエンス(知恵の人)ではなく、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)であるとしたのは、歴史家のヨハン・ホイジンガだ。

 遊びとは自由で、生産性や効率とは無関係で、自分が創り出す時間と空間のなかで、自分が決めた一定のルールに従って行われる活動である。

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