“潮干狩り理論”を、全否定できなかった

 私は社長さんの話を聞きながら、学生時代に潮干狩りに行った時のことを思い出していた。

 「目の前にアサリがたくさんあるんだから、がんばって獲れよ。今夜のご飯だぞ!」

 先輩にこう言われたのだ。4月初旬の海岸は予想以上に寒い。「寒いよ~。もう帰ろうよ~」と半泣き状態だった私に、目の前に旨いもんがあるのに、今獲らなくてどうする? 今でしょ?! と言わんばかりに怒られた。

 あのときの“潮干狩り理論”(下手なネーミングだ)と、全く同じだ。

 この社長さんの発言を、
「社員はモノじゃないんだ!」だの
「そんなことやってるとつぶれるぞ!」だの
「人権というものを、どうお考えですか?」だの
「それで社員が過労死したら、どう責任を取るんですか?」だのと、
正論でぶった切ることはできる。

 実際、残業を肯定する姿勢は全く共感できなかったし、ストレスマネジメントさえ上手くなればどうにかなる、という安易な考えには憤りさえ感じた。

 でも、正論やきれいごとを振りかざし「うちの会社はブラックだって? いやいや、ブラックなのは、あなたでしょ?」と、喧嘩する気にはどうしてもなれなかった。

 だって、

「残業手当が増えて喜ぶ社員は多い」

のは、実際にそうだから。たいていそういう人たちは“サイレント残業肯定派”で、長時間労働を見直す気などさらさらない。

 どんなに「残業は賃金とセットじゃなく、健康とセットで」と苦言を呈しても、身体を壊してないからわからない。

 どんなに「長時間労働で注意力は落ち、生産性は落ちる」と実証研究の結果を示しても、自分はちゃんとやってる“つもり”だからリアリティが持てない。

 どんなに「残業が常態化して睡眠時間が減ると、脳の疲れの見張り番が疲弊して『疲れてる』って感覚がなくなって、気がついたときにはとんでもないことになる」と警告しても、「恐いな。気をつけよう~」というだけで、ジ・エンドだ。

残業時間の上限設定に働く側からも不満の声

 先日、政府の働き方改革の議論が始まり、「残業時間に一定の上限を設ける」方針が示されたときもそうだった。「一律の上限規制をされれば、必要なときに人手が足りなくなり、収益力の低下につながる」といった経済界側からの牽制球だけではなく、働く側からも不満の声が出たのである。

「残業を減らしてくれるのはおおいに結構。でも、それするんだったら給料を上げてくれないと生活できない」
「こんなことされたら、マジで生きていけない」
「基本給が低いのが問題。そこを改善しないで残業代がなくなったら、実質的には賃金削減じゃないか」
などなどネットだけではなく、私の周りでも不満を口にする人は多かった。

 本当に「残業代がないと生活できない」かどうかは確かめようがない。だが、上限規制が俎上に載せられたのは今回が初めてではなく、その度に経済界は反発し労働組合側からも懸念する声があり、本格的な議論がされないまま今に至っているのが現実なのだ。

 そもそも1947年に労働基準法が制定されたときに、36協定というザル規定を作り、経済成長の妨げになるからと、時間外労働(休日・深夜を除く)の賃金割増率を欧米の50%より低い25%にしたときから、残業は残業じゃなくなった。「みなし残業」なんて概念自体、けったいなお話である。

 誰だって、お金は欲しい。あとになって「ああ、なんであんなことをしてしまったんだ」と取り返しのつかない事態になるとわかっていても、目先の幸せに人は魅了される。不安定な心理状態を嫌う人間にとって、誘惑に屈することが何よりも最良の方法なのだ。

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