「排除されていない者は包括されている」との名言を残したのは、社会学に大きな影響を与えたドイツ出身のゲオルク・ジンメル博士だが、博士は「構成人員の割合によってその集団の性質が変わる」と、数の重要性を指摘した。

 ジンメル博士自身が「ユダヤ人である」という理由で、ベルリン大学の教授になれなかったのは社会学史上有名な話だ。

 その「排除」と戦い続けたジンメル博士の理論のひとつに、「よそ者と放浪者」という定義がある。

自覚なき価値観が“刃”に

 放浪者は「今日訪れ明日去り行く者」であるのに対し、よそ者は「今日訪れて明日もとどまる者」。私たちは「旅行客(放浪者)」にはとても親切にするが、その人が同じ土地で暮らすようになると「よそ者」扱いし、態度を豹変させる。

 「よそ者は集団そのものの要素であり、貧者(社会的弱者)や多様な『内部の敵』――その集団における内在的な部分的な地位が、同時に集団の外部と集団の対立を含んでいる――と異なることではない」(『社会学―社会化の諸形式についての研究』ゲオルク・ジンメルより)

 つまり、よそ者とは「集団の内部に存在する外部」で、よそ者差別は普遍的に存在する。

 これまでにも「数」の重要性を指摘したコラムを書いてきた通り、男社会に紅一点の女性が加わった途端、男VS女が顕在化する。この構図は人種、性別、学歴などあらゆる属性の違いで起こる現象である。

 内集団である多数派(男性)のメンバーは、自分たちの地位の高さの見せしめに「よそ者(女性)」を差別し、排除する。「よそ者」はある意味、多数派が権力を振るう装置として機能してしまうのだ。

 しかも悲しいかな、よそ者が女性の場合、無能呼ばわりされることが多い。

 「女性医師というだけで差別する男性医師がいる」という言葉の奥底には、女は面倒くさいという感情と「女性医師は無能」という偏見が混在しているのではあるまいか。そして、それは医師の世界に限らず「男社会」のあちこちに存在しているのである。

 例えば、「女性社員が80%を占めているのに管理職は男性だらけ」という会社に私は何度も行ったことがある。なぜ、圧倒的な女性の職場なのに階層組織の上位は男性のみになってしまうのか?
 ジェンダー・バイアス。

 社会に長年存在した「当たり前」が自覚なき価値観となり、女性蔑視を生んだのだ。

 言わずもがな古来よりリーダーの多くが男性だった。

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