「勇気をもらった」の裏に存在する優越感
「ボクの願いはたった1つ。この競技を1つのスポーツ競技として見て欲しい。パラリンピックを純粋にスポーツだと評価し、楽しんでくれるお客さんで競技場を埋め尽くしたい。
ロンドンパラリンピックは、ファンが純粋にスポーツを楽しむ感覚で観ていたからこそ大成功を収めた。ボクが金メダルを取っても、日本ではテニス選手として評価されるんじゃなくて、障害者が車椅子テニスをしてまで前向きに頑張っているのが偉い、感動する、と言われてしまう。どこか同情の対象なんですね」
かつて、テニスの国枝慎吾選手も、こんなコメントを述べた。
国枝選手の活躍が、日常のスポーツコーナーで報じられることは限りなく少ない。5月末に日本で初めて開催された、車いすテニスの国別対抗戦「BNPパリバワールドチームカップ車いすテニス世界国別選手権」の扱いも、めちゃくちゃ小さかった。
その一方で、「世界の国枝を追う!」なんてタイトルのドキュメンタリーでは(←私が勝手につけた架空のタイトルです)、感動ドラマが描かれる。
なぜ、彼らの「がんばり」ばかりにスポットを当てるのか? 元気をもらった、勇気をもらった、と私たちは彼らが壁を乗り越えようとする姿に感動するけど、壁って何なんだ?
「あんな障害があるのに……」と、「壁=身体の障害」としているのではないか。
「自分の抱えている問題は、彼らに比べたら大した困難ではない」と、思い込むための“感動ポルノ”。そうなのだ。感動ポルノは、社会のあちらこちらに存在しているのである。
“温かい”まなざしに潜む冷やかな刃
私は大学院に在学中に、「障害をもつ人の意識と、障害者に対するまなざしを比較分析した調査」を行ったことがある。ちょうどドラマのなどの影響でバリアフリーという言葉が市民権を得た時代で。障害者と共に生きるということが、散々言われた時代だった。
そんな社会で、人々の障害への“まなざし”と、障害者が感じている“まなざし”を比べることで、障害者の生きづらさを知るのが目的だった。
調査では、同じ質問を一般人(非障害者)と障害者に問い、「ある」「ない」で回答してもらった。その結果、
・障害者は、「かわいそうだと哀れむような雰囲気」
・障害者は、「結婚できないという考え方」
・障害者は、「親の役割を果たせないという考え方」
に関して尋ねた3つの質問では、障害をもつ人々のほうが、一般の人より「ない」と答える傾向が強かった。
一方、
・「障害者1人ひとりのよさを尊重する考え方」
に関する質問には、一般の人々のほうが障害をもつ人々より、「大いにあると思う」と回答する傾向が強かったのである。
2005年に同様の調査を実施したときには、これらの結果から、「障害者への温かいまなざしが一般人にある」と考察した。
が、今改めて調査結果を見直してみると、この温かさこそが、感動ポルノそのものなんじゃないかと。ごく普通の少女を、青年を、大人を、障害があるだけで「特別な人」扱いする。そのまなざしこそが、障害者にとっての最大の「障害」になっていたのだ。
Powered by リゾーム?