障害者雇用が進む陰で

 2013年4月に「障害者雇用率制度」改正され、従業員数50人以上の民間企業では2.0%以上の割合での障害者雇用が義務付けされたことで、民間企業で働く障害者は12年連続で過去最高を更新している(達成企業47.2%:2015年6月1日時点)。

 2015年時点で前年より5.1%多い約45万3000人。精神障害者は25.0%増(約3万5000人)、知的障害者は8.4%増(約9万8000人)で、身体障害者の2.4%増(約32万1000人)より伸びが大きい。

 そういった状況下で、むごい扱いを受けている障害者数が過去最高を記録したのだ。

 「おまえがいなくなれば楽になる」といった暴言は、決して例外的な事例ではない。

「義務だから雇っているだけ」
「何もしなくていいよ」
「トイレ掃除くらいできるだろ?」
「いいな~。来るだけでおカネもらえるんだからな」

などと、上司や同僚から心ない言葉を浴びせられたり、「耳が聞こえない」のに電話番をさせられている人たちが、少なからず存在する(これらはすべて私が実際にインタビューした中で得られた証言)。

 私たちは障害者(この呼び方にも抵抗があるのだが)を、どんなまなざしで見ているのだろうか?

 そこで今回は、「障害と社会」について考えてみる。

障害者はみな、「感動的な話をする人」???

「私はオーストラリアのビクトリア州の小さな町で育ちました。学校へ行き、友達と遊び、妹たちとケンカし、とても『ふつう』でした。

 ところが、私が15歳になった時のことです。地元のコミュニティのメンバーが私の両親のところへ来て、私を地域の“achievement award(達成賞)”にノミネートしたいと言いました。そのとき、両親はこう言いました。

 『とてもありがたいお話ですが、ひとつ明らかな問題があると思います。彼女は何も“達成”』していないと思うんですが』と。

 私は学校に行き、良い成績を収め、放課後は母の経営するヘアサロンでのんびりとお手伝いをしていました。そして『吸血キラー聖少女バフィー』や『ドーソンズ・クリーク』といったテレビドラマをよく見ていました。

 両親が言ったことはまったく正しかった。私は『ふつう』以上のことを何もしていません。何ひとつとして。障害というものを、平均以下の状態であると見なさない限り、“達成”と言われるようなことは何もしていなかったのです。

(中略)

 数年後、私はメルボルン高校で2年目の教師生活を迎えていました。法律に関する11年生向けの授業で、1人の男子生徒が手を挙げて、私に尋ねました。

『先生、いつになったら講演を始めるんですか?』
『何の講演?』私は訊き返しました。

 すると、『何か、感動するようなスピーチですよ。車椅子の人が学校に来たら、ふつうは人を感動させるような話をするものでしょう? たいてい大きな講堂でだけど』。

 学生のこの言葉が、私が自分に向けられている“まなざし”に、気付くきっかけになりました。その生徒が今まで出会った障害者はみな、『感動的な話をする人』という存在だったのです」

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